2014/08/31

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?
という問いがあるとして、それについてどのように考えればよいのか?
私なりの考え。

一つめ。話す聞く、書く、読むの力はそれぞれ別の力ではなく、共通して指導できることが多い。 
書いたり話したりという効果的な表現の仕方を学ぶことは、それを読むときの力にもつながるはずです。その関連性を意識して指導するようにすればよいのではと考えています。(し、最近では読んで、そこから自分の考えを書いて表現するような力も問われていますので、単純な文章理解力のみではまずいと感じています)
たとえば、「書くこと」の学習で詩を創作する学習をしたとします。詩を創作するときに活用する「比喩」や「擬人法」などの知識や、情景描写や心情描写、象徴などの表現の効果を考えながら書く学習は、「読むとき」の学習にも活用させていくことができます。そのような領域を関連させた指導が重要であると感じています。

2つめ。評価も変わりつつある。 
全国学力・学習状況調査を全国で実施し、その点数による序列化があおられる昨今、高校入試も全国学力……のテストのスタイルに少しずつ変わってきています。また、次の学習指導要領でも、従来のペーパーテストによる評価だけでなく、パフォーマンス評価が導入されることは確実です。高校入試にこびるのではなく、むしろ、社会に出てから役に立つ学習を、こちらが堂々と展開していくべきだと考えます。

3つめ、言語活動は目的ではなく手段である 
たとえば、音読は「話す聞く」の活動ではなく「読むこと」の言語活動として示されています。
現行の学習指導要領では、言語活動を通して指導事項を指導する、というスタイルになっています。言語活動は手段、指導事項の習得が目的です。
これは、たんに大きな声ですらすら読む、ということを目的にするのではなくて、音読という活動を通して、より文章を深く解釈するという指導事項を指導することを目的にして行われるものです。
だから、音読を通して文章の解釈を考えることがうまく行われるのであれば(たとえば、音読するときの読み方を考えるときに、文中の登場人物の気持ちを想像して書き込む活動をすることによって)いわゆる高校入試で問われるような「読解」の力を付けることが可能になるのではないかと考えます。

4つめ、読むことと話す聞く、書くことのバランスはそもそも等分ではなく、学習指導要領上でも「読むこと」は重視されている。 
学習指導要領の「指導計画の作成と内容の取り扱い」には、それぞれの領域の時数の目安が示されています。
それによると、1・2年の授業時数140時間のうち
「話す聞く」が15〜25時間
「書く」が30〜40時間と示されています。結果として
「読むこと」には95〜75時間割くことができます。
話す:書く:読むは、おおむね1:2:3ぐらいの割合で行われることになっています。この割合はそれほど多いとも少ないとも(私は)感じません。

2014/08/30

西日本の子どもがよく反応する謎

全国のことどもたちに会う機会がある、ある方に、大変興味深いことを聞いた。
それは、西日本の子は、東北の子どもと比べて明らかに反応がよいということだ。
よくしゃべり、よく笑う。

ここから先は類推だが、西日本の子どもは、一次的ことばと二次的ことば(岡本夏木)との壁があまりないらしい。
つまり、頭の中で方言で考え、しゃべりも方言で話す。だからストレートに感情を表出できる。
一方、東北では、頭の中では方言でも、しゃべりのときには共通語に変換する作業が入るため、反応が慎重になるらしい。
という仮説だった。

学校でも、授業で方言を使う地域と、共通語を使う地域とでは少なからず影響があるはずだ。
私自身は、ほとんど共通語で話し、方言を意識しない地域に育ったので、そういう言葉の問題はものすごく興味がある。
そういう研究はないだろうか?

2014/08/29

「好き」と「研究」の越えられない一線

今日は総合的学習のグループ内発表会だった。
うちの総合的な学習の取り組みでは、1年間かけて、自分の好きなテーマをとことん追求してレポートを書くという取り組みをしている。
私の受け持つグループは、一応「暮らしと文化」というくくりなんだけど、漫画やアイドル、ゲームなどのサブカルが好きなメンバーも結構集まっている。
生徒たちの探求活動を見て、あらためて思ったのは「好き」と「研究」とは違うということだ。
もちろん「研究」には「好き」が原動力になるのは言うまでもないんだけど、「好きなので調べました、まとめました」だけでは、「それほど好きでない人」にまで訴えかける説得力を持つ研究にはなかなかならない。
「好き」を「研究」とするためには、鋭い切り口で、やや「冷めた目」で対象に切り込んでいかなければならないようだ。
そのうえ、厄介なのは、対象への愛が強い子ほど、研究テーマを絞り込んだり、切り口のヒントを示そうとする教師のアドバイスを、決して聞き入れようとしないということだ。

2014/08/27

単元「手紙」~大人は何種類の「手紙」を書かなければいけないか?~

夏休み明け最初の授業。
休み明けなので、教師も生徒も最初は「慣らし運転」で徐々にお勉強モードにしていくのがよい。
なるべく軽めの活動&手を動かして、気楽に取り組める学習活動にすることにした。

単元「手紙」~大人は何種類の手紙を書かなければいけないか~

最近はすっかりメールで用を足すことが多くなった。しかし、こういう時代だからこそ、手書きの手紙のよさを十分に感じ取ってほしい。また、社会に出てから困らないだけの書き方ぐらいは身につけてほしい。そう考えて手紙の書き方を学ぶ単元を構想した。

対象 中学2年生
時間 2時間

ねらい
・手紙を良さを知る。
・手紙の書き方を知る。

学習の流れ
◆課外
夏休みの宿題で、好きな人に暑中見舞いを書く。(実施済み)

◆1時間目
「手紙の良さ」について考える
・暑中見舞いと残暑見舞いの違いは?
・なぜ年賀はがきや暑中見舞いを書くか?
・もらってうれしかった暑中見舞い、年賀はがきは?

・次のサイトを紹介
【62年越しの恋】92歳の男性が忘れられない人に1通のラブレターを送った

・次の手紙を紹介
野口英世の母シカの手紙


野口英世に宛てた母シカの手紙   
おまイの ○ しせにわ ○ みなたまけました ○ わたく
しもよろこんでをりまする ○ なかた
のかんのんさまに ○ さまにねん ○ よこもりを ○ い
たしました ○ べん京なぼでも ○ きりかない
○ いぼし ○ ほわこまりをりますか ○ おまい
か ○ きたならば ○ もしわけかてきま
しよ ○ はるになるト ○ みなほかいドに
○ いてしまいます ○ わたしも ○ こころ
ぼそくありまする ○ ドかはやく
きてくだされ ○ かねを ○ もろた ○ こトた
れにもきかせません ○ それをきかせるト
みなのまれて ○ しまいます ○ はやくき
てくたされ ○ はやくきてくたされ
はやくきくたされ ○ はやくきて
くたされ ○
いしよのたのみて ○ ありまする
にしさむいてわ ○ おかみひかしさむ
いてわおかみ ○ しております ○ き
たさむいてわおかみおります ○
みなみたむいてわおかんておりま
する ○ ついたちにわしをたちをし
ております ○ ゐ少さまに  ○ついた
ちにわおかんてもろております
る○なにおわすれても ○ これわす
れません ○ さしんおみるト ○ いただいております
る ○ はやくきてくたされ ○ いつくるトおせて
くたされ ○ これのへんちちまちてをり
まする ○ ねてもねむられません
◆もしこの二つの手紙がメールだったら同じように感動する??

◆手紙とメールのそれぞれの良さについて話し合う

◆クラスの人に、夏休みの「楽しい」思い出を報告する手紙を書く。

 次の形式を必ず踏まえること。
 ①頭語
 ②時候の挨拶
 ③相手の安否を尋ねる文
 ④本文
 ⑤結びの言葉
 ⑥結語
 ⑦日付
 ⑧書名
 ⑨あて名

・ポイント「楽しい」様子を工夫して伝えること!


(2時間目)
実用的な手紙の書き方を学ぶ
◆手紙tips
・記念切手
・風景印

小石川郵便局は東京ドーム!

・ミニレター

◆前時に書いた手紙を回覧して読み合う。

◆大人は何種類の手紙を書くか?
・年賀状
・暑中見舞い
・転居のお知らせ
・転職のお知らせ
・結婚式の招待状
・同窓会の招待状
・赤ちゅんが生まれました
・お葬式、法事のお知らせ(会葬御礼)
・パーティーなどの招待
・お礼状
・遺書

◆同窓会の招待状が来た!
それの返信を書く。

こんな素敵な返信の方法を紹介。

結婚する友人に愛情溢れるサプライズ。趣向を凝らした招待状への「出席」返信17選

◆「思わず行きたくなる」文化祭の招待状を書く。

次の文例を参考に、往復はがきに文化祭の招待状を書く。

・ポイント「思わず行きたくなる」ような工夫をする

往信
○○中学校 ○○年卒業生
同窓会のお知らせ
拝啓 ○○な季節になりました。
皆様におかれましては益々ご健勝のことと心よりお喜び申し上げます。 
さて、早いもので、私たち○○中学校○○年卒業生が母校を卒業してからはや○年が経とうとしております。
皆様のご協力により、待望の同窓会が開催できる運びとなりましたので、ご案内申し上げます。
また当日は、私たちの活躍を陰ながら喜ばれている恩師の先生方も多数出席され、思い出話にまつわるさまざまなレクリエーションも用意しておりますので、お誘いあわせの上ぜひご出席ください。敬具 
          記
日 時:○年○月○日(○) ○時~
場 所:レストラン○○
     東京都豊島区池袋○-○-○
     TEL 03-0000-0000
会 費:00,000円
幹 事:○○○○ 03-0000-0000
お手数ですがご都合のほどを○月○日(○)までにお知らせください。 
返信

  平成26年度○○中学校卒業生同窓会に
  
  ご出席
  ご欠席

  どちらかに○印をつけてください。
  なお、ご欠席の場合でも「ご住所、ご芳名」を記入の上、ご返送ください。

  ご住所
  ご芳名


◆手紙を交換し合い、返信を出す。
・「思わず行きたくなった」工夫について指摘しあう。



2014/08/25

「道徳の評価」は喫緊の課題

道徳の教科化が一気に進められている。
道徳教育にはイデオロギー的な面など様々な問題があるが、モラルやマナーなど道徳的なことを学校教育で身につけることそのものに異論を持つ人は少ないだろう。
それよりも私は、道徳教育の喫緊の課題は「評価」であると思う。
道徳性というものがあるとして、それが授業によって高まるという見通しがあるとして、その道徳性を証明するために、なにをもって評価とするのか??
これに明確に答えられなければ「授業」とは言えないのではないか?
評価できなくても、とりあえず時数をやっとけばいいというのなら話は別だけど。

「評価」がもしできるとしたら、次に、指導の重点についても検討すべき余地ができる。
道徳には「内容項目」というものが学習指導要領では指定されている。
これを、はじからはじまで、丁寧に、同じ時間授業で扱う必要があるのか?

たとえば「整理整頓」については非の打ち所がないくらいすばらしい実態だったとする。
その実態がもし「評価」でき、十分だと判定したとするならば、その場合「整理整頓」は軽く扱って、「思いやり」に多くの時間をかけることができるのではないか。
「評価ができる」ならば、指導の軽重を考えることにも自然とつながってくるはずだ。

それに、そもそも、道徳の内容項目で「整理整頓」と「思いやり」が同じ比重だとは私にはどうしても思えない。
多少整理整頓ができなくたって、人に対する思いやりを持っている人の方がよっぽど道徳性が高いとは言えないのか? 
これは私の価値観にすぎないだろうか?
そのへん、道徳に詳しい人、教えてください。

2014/08/24

「中学三年生の2割は、ネットで知り合った人に会いに行ったことがある」

「中学三年生の2割は、ネットで知り合った人に会いに行ったことがある」

これは、この間の「情報モラルの最新事情」セミナーでの印象的な言葉。
(※念のため、中学生があぶない大人と出会うという意味ではないからね。LINEなどのつながりで趣味の合う友達とつながるという意味。)

親父世代からしてみれば、ネット上の出会いを「危険!」「いかがわしい」と感じちゃうかもしれない。
しかし、そういう私たちだって、「部活の試合で見かけた他校の生徒」とか、「模試でたまたま隣の席だった人」などと偶然知り合い、友達になるとこともあった。それが「ネット上」に変わっただけということも言えるのかもしれない。少なくとも中学生はそういう感覚だ。
ショッピングでも、いまやAmazonや楽天などの「ネット上」のお店から買うことも当たり前になってきている。それを「危険」とか「いかがわしい」とはもう考えないだろう。「非対面でのショッピング」は、リアルなショッピングの割合と比べてどんどん増えてきている。
「ネット上の、非対面での人間関係」も、今後ますます私たちの日常生活で増えていくことは間違いない。
フェイスブックなどのSNSを日常的に活用している人なら、「ネット上の、非対面での人間関係」の意義や効用については疑う人はいないだろう。
「ネット上の」非対面での人間関係」においては、今までにはなかった言語生活が、今までは求められなかった作法や意識が要請されるようになる。
それはどのようなものなのか、どのように学んでいく必要があるのか?
まだまだ授業開発すべきことはたくさんある。

2014/08/23

アイスバケツと日本人、または拒絶しない日本人。

断りにくい日本人、いい人ほど、アイスバケツのシャレを重荷に感じちゃうらしい。

拒絶するときの日本語の語彙を豊かにもちたい。
アサーショントレーニングとしての日本語指導。
たとえば、誘いを断るときに何パターンの言い方があるか?

反面、無意識に使っている言葉が拒絶に響くくともある。たとえば「大丈夫です」は拒否の言葉。相手の受け入れを、やんわり拒絶するときに使うことが多い。

話は一気に飛躍するが、拒絶することや自分の気持ちを相手に伝えること、相手もそれを受け止めることこそ、人間関係の根本であり、社会生活で最も重要な根本であると思う。
そう考えたときに、これを可能にするソーシャルスキルと「道徳教育」との関係は、いまどうなっているんだろう?


愛国心を教えるのと同じくらい、殺したくないっていう気持ちを(そう感じたときに)叫べる人に、自分はそう考えていなくても、少なくとも叫んでいる他者を尊重できる人に育てようとしているんだろうか?

2014/08/22

大学で「特別活動論」をお話しする〜部屋と猫とルンバと私〜

特別活動論って何じゃらほい?
池田先生のご紹介で、京都橘大学の学生さんを前にお話しする機会をいただいた。
お題は「特別活動論」
池田先生「自分の得意なところで、どーんとやってください!」
というご依頼だったけど、正直不安もあった。
「特別活動? 何それ一体??」という世界なのだ。
いままで、そんな内容を専門的に実践したり、研究してきたわけではない。
一体何を、この私にできるのか……

私に与えられた時間は3コマ。270分。
その時間を、少しでも期待に応えられるだけの内容を用意しなければいけない。
また、たった3コマだけども、学生さんに少しでも「力」をつけて欲しい。「力」まではいかなくても「力を付ける」きっかけぐらいにはなって欲しい。
そう考えて、依頼をいただいてからずっと「私にとっての「特別活動』」をあらためて問い返していた。

今までの記憶を編集する
まず、今までの生徒たちの写真を引っ張り出してきて、どんなことがあったのかを思い出していった。
そして、物置をひっくり返して、初任の頃から作っていた文集や学級通信などをすべて見返していった。
さらには、〈これは最近のことだけど)ブログやフェイスブックなどで折々に書いていた「つぶやき」などで使えそうなものを拾い集めていった。 
これらを読み返しながら、子どもたちとともに生活してきた中で、教えられたこと、気づかされたこと、あらためて考えていったことを思い出し、書き出していった。
公立中で10年、その後の5年……やはり、しんどかったときの日々を自然に思い出す。
時間を忘れるほど読みふけった。(おかげで久しぶりに完徹してしまった……)
そして、あのときの、あの瞬間がありありとよみがえった。「あのときこうすればよかったのになあ」という、少しの(たっぷりの??)後悔と一緒に。

読み返しながら、「特別活動としてやったこと」を付箋に書き出した。
・学級通信
・つぶやきノート
・文化祭
・運動会
………

ルーツにぶち当たる
書きだしたものを、いくつかの柱を立ててまとめることにした。
分けてみては、しっくりいかないなあと直し、また別の柱で検討し……
いままでの経験をすべて出し切った。
逆立ちをしても鼻血が出ないくらいに出し切った。

そんなことを何度も繰り返していって、ようやく、一つの大きな柱が見えてきた。
「伝え合うクラス」
そうか、これだったんだ。私がやりたかったことは!!

妻に興奮しながら、自分の構想を語った。
「『伝え合うクラス』っていうテーマでお話ししようと思うんだけど、どうかなあ?」
「やっぱり、あなたの学級作りって国語っぽいよね……」
そうだよね。学級作りも、国語の授業も、その根っこはおんなじだったのだ。
何とか道を探そうと穴を掘り進めていったら、地下にもう一つの大きな穴が掘られているのにぶち当たった。「国語」という穴に。なんだかうれしかった。

特別活動だろうと、国語だろうと、私が子どもたちへアプローチしているのはおんなじだ。
その根っこのようなものの存在を、あらためて気づくことができたのはうれしかった。

お掃除ロボット「ルンバ」のシンプルさ
ちょっと脱線する。
教師にとっての試行錯誤は、お掃除ロボット「ルンバ」のようなものかもしれない。
〜こっからは、最近はまっているロボット研究の受け売りです〜
「ルンバ」のロボットとしてのプログラムは、実はとてもシンプルだ。
そしてそのシンプルが、あらゆるロボットのプログラムでも革命的なイノベーションを生み出しているらしい。

この辺の本。面白いよ。

『ロボット化する子どもたち 学びの認知科学』

ロボットのプログラムは、通常「こうきたらこうする」という「プロトコル」と呼ばれる行動パターンを入れ込んでいくというのがある。
お掃除ロボットの場合でいうと、掃除をしたい部屋の奥行きは、縦は何メートルで、横は何メートル。段差は……、などなど、こういったプロトコルを入れ込めば入れ込むほど、より複雑な、精緻な動きをさせることができる。
そういうタテマエで、ロボットの研究が進んでいる。
しかし、ここで思わぬ限界にぶち当たる。
どんなに「こうきたらこうする」というプログラムを入れ込んでも、現実はそれ以上に、とてつもなく複雑にできているのだ。(これを「フレーム問題」というらしい)
計算機や、将棋を指すプログラムよりも、掃除をするプログラムの方がずっと難しい。将棋のように、世の中は単純にはできていないのだ。
たとえば、いくら完璧に部屋の間取りをプログラムに入れ込んだとしても、その機械の前に、たまたま猫が寝ていたらもうお手上げだ。
「何時何分、何メートル先に、高さ40センチの猫が寝ている」ということまで、いちいちプログラムすることは不可能だからだ。だから、いくら完璧にプロトコルを入れようと、そのロボットは、「プログラムに書かれていないことはできないというプログラム」に忠実に従い、フリーズしてしまう。

一方、ルンバの場合はどうか。
ルンバのプログラムは、あきれるくらいに単純だ。
「壁に突き当たったら、引き返す。それを繰り返す」というプログラムだけだ。
しかしシンプルであるが故に、どんな間取りでも、猫の襲撃に遭おうとも、切り返すことができる。

私のシンプルなプログラム
わたしも、この十何年の教師生活をあらためて振り返ると、ぐるぐると回ってきたものだなあと思い返す。
その時々の状況と、子どもたちとに、右往左往したり、立ち往生したり、出直したり引き返したりしながら、必死にぐるぐると回ってきた。あたかも、猫にぶつかっては引き返すルンバのように。
でも、その構造は、突き詰めると笑っちゃうくらい、とってもシンプルなものだったのだ。
「伝え合うクラス」
そして、それは、いくつかのキーワードにまとめられる。
「沿いつつずらす」
「あこがれにあこがれる」
「子どもとともに学ぶ。子どもから学ぶ」
「うまい文章よりも、味のある文章を」
「『個』を際立たせる」
「自分にしか書けないことを、誰が読んでも分かる文章で」
「実の場を整える」
などなど。
国語も特活もごっちゃまぜ、関係ない。
むしろ、それらは、私にとっては「タイガーバーム」のような万能薬なのだ。
そんな、私の中の核となっているものを、あらためて、そのときの子どもたちの顔とともに、会話とともに、いま、振り返っている、とても幸せな体験をすることができた。

授業の構成
さて、大学の授業は次のような構成で進められた。
1時間目 「伝え合うクラス」
自分の特別活動に関する体験談をお話しする。

2時間目 ワークショップ「特別活動アイディア甲子園」
グループで特活のアイディアを考え、それをお互いにプレゼンし合う。

3時間目 2時間目の続きと、今日の授業を踏まえて、池田先生との対談

学生さんたちには、話を聞いただけで終わりにして欲しくはなかった。
特別活動を作ることがいかに難しく、いかに楽しいものなのかを実感して欲しかった。アイディアを生み出す勘所のようなものを知って欲しかったので、「特別活動アイディア甲子園」のワークショップは是非入れて欲しいと池田先生にお願いした。
(人数が130人というとても大規模な授業だったにもかかわらず、二つ返事で「面白そうですね、やりましょう!」と応えてくれた池田先生の度量の広さに感謝している)

授業の詳細については、またどこかの機会で書きたいとは思うけど、学生さんたちが真剣に「伝え合って」アイディアを練り上げている姿を見られたのは、とてもほほえましかった。
普段は中学生を相手にしているんだけれども、大学生だって、私にとっては、授業の中では生徒のような存在だ。学生さんたちの素直な反応に触れているうちに、私も肩の力を抜いて、いつもの中学校の教室と同じように語りかけ、また学生さんもそれに応えてくれたと思う。

さて、私なんかよりも、ずっと中学生たちと年齢が近い大学生なんだけれども、どれくらい教師の立場で特別活動をイメージすることができたのだろうか? どれくらい中学生の目線に立って、中学生のつぶやきを拾い上げることができたのだろうか?
たった一日では、知るすべはないのが少し残念だ。
いや、残念だと思えるだけの、素敵な学生さんたちと出会えることができてよかったと思うことにする。

2014/08/20

老舗レストランと古典

このあいだ、初めて東京の名洋食屋である、日本橋たいめいけんに行ってきた。
で、早速帰省したときに、そのことを親父に話した、すぐに話に乗ってきた。
「あのキャベツのやつは食ったか?
チキンライスが美味いんだよな。
俺も昔は良く取引所の昼休みに行ってさ……」
親父は、日本橋にある証券会社に勤めていた。もちろん、とっくの昔に退職。日本橋に行くことももう無いだろう。
しかし、たいめいけんの話をきっかけに、当時の味を、記憶を蘇らせている。(一応、まだ頭は元気だ)

老舗レストランは、古典に似ている。
古典も、世代を超えたテキストとして、味わったもの同士で、共通の話題で語らうことができる。
そして、その古典に出会った当時の記憶をも、引き出すことができる。
もちろん、美味しい老舗レストランは何度訪れてもお客を満足させることができる。
いや、そういうお店こそが、老舗の名を戴くのだろう。

2014/08/18

ずらすと本質が見えてくる(かもしれない?)

「〈話し合い〉は目的を明確にすることが重要」
という言葉にずっと違和感を感じていた。

「〈書くこと〉は目的を明確にすることが重要」
「〈読むこと〉は目的を明確にすることが重要」は、まあ言われるけど、
「〈歩くこと〉は目的を明確にすることが重要」
「〈食べること〉は目的を明確にすることが重要」
「〈生きること〉は目的を明確にすることが重要」
まで「ずらす」と何かおかしなことになってくる。

目的ねえ、そもそも、目的もなく話したり、読んだりすることを、それだけ教室でさせてきてるって言うことでしょ? とか、
食べることや生きることなんかの「目的」を意識しては生きていないのに、どうして教室で話したり読んだりするときには「目的」が出てくるんだろう。とか。
それらの「ずれ」に、考えなきゃいけない大切な部分があるような気がする。

2014/08/10

実践研究は「見えてきた」型研究がおさまりがよい

実践を人に伝えるのは難しい。
どうしても、「これがいいんだよ」「これ、大事!」という「結論」を性急に押しつけるスタイルになってしまう。
でも、その結論に至ったプロセスとか、そう結論づけたそもそもの前提が共有されないことには、「へー、すごいね、で?」と言われて終わり、ということになりかねない。

実践研究のスタイルは、科学実験のような「仮説検証」タイプがよくある。。
こういう見込みで、こんな仮説を立てて実践をしてみました。
そしたら、ほら、ご覧の通り、見込み通りの結果になったんですよ。どうですか?
というスタイルだ。
この「仮説検証」タイプの実践研究は結構難しい。
・そんな仮説、いまさら言うまでもない、当たり前なものじゃないか!
・検証の方法がそれで本当に適しているのか?
などという眼で、研究を検討されるようになる。
この辺を上手にクリアしないと、予定調和的な、ありきたりなうさんくさい研究になってしまう。
そしてほとんど現場ではほとんど説得力を持つものとならない。
「実践研究なんて所詮役に立たないもの」という絶望的な認識に至る。

実践研究は、実践のリアルさをそのまんますくい上げるようなものにしていきたい。
普段、私たちが実践をするときにはかっちりとした「仮説」なんて立てるだろうか?
「理論」を胸に授業をデザインするだろうか?
もっと直感的な「何か」とか、胸を突き動かされる「何か」に向かって授業を作り上げていくのが普通ではないか。(そんな直感さえ、あらためて考えないと意識には上がらないかもしれない)
だから、そんな場合は「見えてきた」型研究が、妥当だと思うのだ。
「見えてきた」研究とは、とりあえず、いろいろとあれやこれや実践をしてみて、新たに「見えてきた」景色、「見えてきた」世界、「見えてきた」深みを描くという方法だ。
経験によって、同じことをしていても「見えてくる」世界は違ってくることは多い。
そして、おそらくその世界はより複雑で、よりとりとめも無く、より混沌としているもののはずである。
そういう「豊かさ」を言葉にし、意味を見いだしていくことを目的とするのだ。

「豊かさ」を共有すること。「見えてきた」世界を共同注視すること。
それが、より広い、より深い「世界」へと歩みを進めることになるのではないかと思う。

うーん、最後が抽象的になりすぎてしまった……
もうちょっと自分の頭の中では具体的な方法論になっているはずなんだけどなあ……

2014/08/08

「わたし」がいない写真

夏休みのつれづれに、パソコンのHDに記憶されている写真を探したり、学級通信を片っ端から読み返している。
が、残念なことに、私は保存とか記録とかに全くこだわりのない性分らしく、整理がぐちゃぐちゃ。とくに後で整理してまとめようなんて思っちゃいないから、、散逸してしまった資料も多い。
それでも、記憶の断片であるこれらの写真や資料を読み返すことは楽しく、心の中が満たされる体験になった。

デジカメになって、学級の掲示物や、学級通信に写真を入れるようになって、いつもカメラ(ケータイ)を持ち歩き、生徒の姿を撮影するようになった。
それで、あらためて気付かされたことがある。写真には、ほとんど私は写っていないのだ。まあ、当たり前だ。自分がカメラマンなんだから。私が子どもたちと一緒に写っている写真は、100枚のうちの1枚くらいなものだ。いや、500枚くらいか。
しかし、私は、その「私のいない写真」に確かに私の存在を感じ取ることができる。
写真を見つめているだけで、その時、生徒たちはどんな状況や気持ちだったか、どんなことを話していたか、どんなストーリーがあったのかを思い出すことができる。もちろん、その時の、シャッターを切った時の私の気持ちも。

学校はつくづく不思議な場所だ。教師だけでも、子どもだけでも学校という場は存在しない。どちらもが同じ時、同じ場所に存在し、影響を与えあうことで「教師」となり、「生徒」となる。ときにはその立場がぐちゃぐちゃになったり、「教師」が「生徒」となって「生徒」に教えられ学ぶこともある。
教師であるわたしは「生徒」という存在、「生徒」という鏡があるからこそ、教師としての自分を映し出し、その存在を感じることができる。
「わたし」がいない写真のなかには、確かに、そのときのわたしの姿が映し出されている。

学級通信をあらためて読み返すと、生徒に向けた言葉を通して、自分が何を感じ、何を伝えようとしていたのか、ほとんど忘れかけていた思いをあらためて振り返ることができた。
どこかになくしてしまうかもしれないので、せっかくの機会なのでここに転載しておく。


※これは4/8 3年に持ちあがりで進級した時の初めての学級通信の文章。
東日本大震災で3.11以降、卒業式以外は休校で久しぶりに登校した際のものである。
当時学級で運営していた掲示板に書き込まれた、K君のコメントを転載した。

今しかやれないこと
 K君の言葉にとっても共感したので、今日はそれを紹介します。
 よく考えてみれば、この一年が終わっちゃうともう一生このクラスはなくなっちゃうわけなんですよね。このもうすぐ始まる運動会もよく考えてみれば最後なんですよね。ましてやK○団長の紫系列なんて一度しかないんですよね。そう、一度。たった一度。一回逃したら、それきりの。優勝逃せば、それきりなんですよね。このクラスが優勝するのは。なんかさびしいの一言に尽きないんですよね。はかないって言えば言いすぎだけど、結構、出会いと別れってそう思いません?今はとても楽しくていいクラス。けれど、そんなクラスはあと365日もしないで終わってしまう。今、自分に何ができるのか。何をやっても終わってしまうという焦り。いろいろ複雑な心情です。二年間のクラス。そして、今、その折り返し地点にいるわけです。振り返ってみてください。楽しいとか最高のクラスだとか思いますよね。それは、折り返し地点までやってきた2Dがよくやってっくれたから感じるんですよ。そして後半戦は3Dなんです。2D以上にパワーアップできたらいいですよね。いくらパワーアップしても終わってしまうというのが、なんとも心苦しいですけど・・・。2Dも本当にいろいろなことがありましたよね。最近のことで言うとあのホワイトスクール。あれも、終わってしまってもう、絶対にこのクラスで行くことはないんですよね。終わってしまえば思い出となってしまうんですものね。
 そして、K○団長の率いる運動会や修学旅行、更には受験までもが一年後には思い出となっているんですよね。そう思うと、行事も受験も今だからやれることだって思いません。今だからやれること。それがいわゆる青春っていうやつなんですよね。全力で当たって砕けてほろ苦いものだといわれますが、むしろそれはそれで楽しいのではないのかなと思います。この3Dも全力で運動会、あたっていけたらと思います。 コメントよろしくね。


※これは卒業する直前の学級通信に書いた文章

    3Dの「旅」の終わりに
 つい最近、ある人の言葉で、とても考えさせられたものがあるので紹介します。
 人生は旅である。これは良く言われる。でも、この意味を考えた事はあるだろうか。人生は旅とは言うが、人生は旅行とは言わない。また、新婚旅行、修学旅行とは言うが新婚「旅」、修学「旅」とも言わない。……では、旅と旅行の違いは何だろか。一言で言ってしまえば、旅行は移動があって、目的地での活動がメイン。旅はその道筋そのものを味わうものと言えるだろう。だから、新婚旅行は南の楽園で楽しむのがポイントで、その途中の移動は何事も無く予定通りに過ぎなければならない。修学旅行も同じである。
 ……もし、人生が旅だとしたら、その人生の多くを占めている仕事というものも旅ではないかと思うのだ。自分が行きたい方向、生きたい方向とは違うところから降ってくる仕事。上手く行ったり行かなかったり。だけど、それをなんとか乗り越えていく。その乗り越えの連続が、いつの間にやら、なんらかの形をなし、人に業績と呼ばれたりするようになるのだ。 (池田修さんの言葉から抜粋)
 私は、この文章を読んで、「人生」を3Dでの生活に置き換えて考えてみました。○○中での生活、3Dで過ごす日々は「旅行」ではなく「旅」なのだと。確かに、みんなが○○中を選んだ理由はさまざまでしょう。「将来のため」「偏差値の高い高校に行きたいから」などなど。しかし、「高校に行く」というゴールのためだけに、毎日の生活があるとしたら、これほど味気ないものはないでしょう。私は、残り少ない3Dの日めくりカレンダーをめくりながら、かけがえのない毎日をとても楽しんでいます。特別な出来事やイベントがなくても、みんなが揃う教室での毎日は充実しています。みなさんはどうでしょうか。「卒業」というゴール。「高校進学」というゴールだけをみるのではなく、クラスで過ごす毎日の、かけがえのない意味を、今だからこそ、日々、しみじみと感じてほしいと思います。
※そして、卒業した日に書いた「ごあいさつ」の文章
3Dを巣立つみなさんへ ~卒業後の人生を生きるためのヒント~
 昨日の学級卒業式では、笑いあり、涙ありのすてきな時間と、プレゼントをありがとうございました。色紙に書かれた一人ひとりのコメントを、その人の顔を思い浮かべながら読んでいました。昨日のひとときは、クラスで過ごした2年間分の思いが凝縮した、濃密な時間だったと思います。
 さて、卒業文集や集会などで、2年間の思い出とか感想は、いろいろな所で書いたり、話したりしたので、ここでは重ねては述べません。折角の機会ですので、私が、生きていく上で大切にしたいなと感じていることを書きたいと思います。
一、今しかできないことをする
 もう、耳にタコだと思いますが、大切なので何度でも言います。「いま・ここ」を大事にして欲しいということです「いま」よりも五年先のことをがんばろう、ではなくて、今日、この時にしかできないことをやることのほうが、ずっとずっと大切です。「いま」はダメだけど、去年は良かったんだ。……こういう人間には永遠に、自分が欲している「いま」はやってきませんよ。
 中学生には中学生しかできないことが、高校には高校の、二〇代には二〇代にしかできないことがあります。それを追求して欲しい。
二、人をうらやまない。同調しない。人は人、自分は自分。
 ○中生はみんな個性的なので、人と比べる機会がそれほど多くはないかもしれませんが、人と比べて落ち込んだり、不安になることは全く生産的では無いのでやめたほうがいいです。○○くんはいいな…勉強ができて。△△さんはいいな…可愛くて……こういうことを、冗談でも言っている人は絶対に幸せにはなれません。なぜなら幸せの基準が「他人」にあるからです。幸せは自分の心がけ次第でどうにでもなります。自分は自分。卑下する必要もないし、高慢になるのも虚しいです。
三、人の言い分はまず聞いてみる
 自分と価値観が違う人、意見が対立する人は必ずいます。そういう人に自分の意見を否定されると、あまり気持ちのいいものではないですし、感情的になってしまいそうになります。しかし、その人がどういう理由で、どんなバックボーンがあって言っているかはよくよく考えてみる必要があります。ひょっとしたら、自分の視野が狭かったり、理解力が不足しているだけかもしれません。まずは、自分の固定概念とか思い込みを一旦置いておいて、その人の目線で物事を考える方法を身につけるといいと思います。
四、賢い人とは偏差値の高い人ではなく、率直に受け止め、謙虚に学び続けることができる人である
 「賢いな」と感じる人はだいたい似た傾向を持っていると思います。①聞き上手である、②気が回る、③頭が柔らかく、臨機応変に対応できる。④他の人を心から認められ、優しい。
 「賢さ」の根底にあるのは、自分の身の回りの状況を率直に受け止め、学び取る謙虚さです。状況を鵜呑みにしないで「なぜか、本当か、正しいか」を追求すると更に学びは深くなります。 
五、結局、本を読んでいる人にはかなわない
 発想が柔らかく、知性がにじみ出る人は、やはり本を大量に読んでいます。高校時代は、名作と呼ばれる、日本や世界の文学に触れることをおすすめします。(大人になってからは、必要に迫られて読む本などに追われ、なかなか文学を読む時間がない)新潮文庫や岩波文庫、光文社古典新訳文庫など、比較的手軽に買える本もあります。とにかく、手当たり次第にどんどん読んでください。ネット全盛の時代ですが、教養を身につけるためには、評価の高い、名作や古典に触れることは不可欠のことです。もし心に残った名作に出会ったという人がいたら、今度一緒に語り合いましょう。 
 
それではごきげんよう! また会いましょう。 さようなら。 



リフレクションの装置としての「教養」

教養について改めて考えたい。
教養とは何か?
お茶をたしなんだり、美術館に行ったりするセレブな生活が「教養」なのか?
教養の本質とは何か??

大学時代、ひたすらたたき込まれたのが「教養」だったとあらためて感じている。
ここでの教養は、もちろん茶道や華道ではない。
教養は、ドイツ語では「ビルドゥングス」というらしい。英語の「ビルディング」のように「形成する」という意味合いがある。「教養=ビルドゥングス=自己形成」だ。
教養とは、煎じ詰めれば自己を形成するための土台であり、リソースである。
人間の存在をビルのような建物だとして、その柱であり、土台に当たるものが教養。
だから、それがある人にとっては、スポーツだったり、文学だったり、音楽だったりと何でもいいんだけれども、ようは、自己形成に資するという視点が決定的に重要だ。
教養は、人生を貫く価値観を形成するものである。だから普段は表には出ない。しかし、その人の意識の底では、ものの見方や考え方、判断をする際の「よすが」となって機能する。
ものの見方や考え方は、社会で生きていく上では他者とのやりとりの中で洗練されていくものである(おそらく)から、その土台となる教養は、多くの他者の間で価値あるものとして存在しているもの、歴史的に淘汰され、継承されてきたものであるほうが、圧倒的に力がある。
だから、ぽっと出の、すぐに「時代遅れ」となってしまうようなテキストではなく、長い時間をかけてウイスキーのように蒸留された、時間や場所を越えた普遍性のあるテキスト「古典」であるものがよい。

大学時代、斎藤孝先生からたたき込まれたのはまさにこの「教養」であった。(し、ここに書いてあることもほぼ100パーセント、恩師の考えの受け売りだ)
斎藤先生は「ビルドゥングス研究会」という読書会を隔週で開いていた。(このほかにも、「斎藤ゼミ」も隔週で開かれていて、そこでは教育、思想関係の本(ルソーとか新書とか)を読む。つまり、毎週ひたすら本を読み、そしてひたすらディスカッションをする。そして夜は終電まで酒を飲んで語り合う……どんだけ体力があるんだと思うほどエネルギッシュだった。(斎藤先生も、学生たちも)
もちろんこの「ビルドゥングス」とは「教養」という意味合いで、また、狭義として「ビルドゥングスロマン(教養・自己形成小説)」を読んでディスカッションし合う読書会だった。
「ビルドゥングスロマン」とは、主人公が成長していく過程を描いた小説で、ドイツものには多いらしい。読書会では、ドイツものに限らず、次のような作品を立て続けに読んでいった。

※記憶をたどると次の作品だ。
トーマス・マン『魔の山』『トニオ・クレーゲル』
ヘッセ『デミアン』『車輪の下』
ニーチェ『この人を見よ』『ツァラトゥストラ』
ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』
谷崎潤一郎『痴人の愛』
フローヴェル『ボヴァリー夫人』
夏目漱石『坊っちゃん』
坂口安吾『堕落論』『風と光と二十の私と』
ゲーテ『エッカーマンとの対話』『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』『フラニートゾーイー』
などなど。

これらの本を読み進めながら、主人公が自己形成したきっかけとは? 自己形成の要素とは?というのを、わいわいと出し合っていった。(たとえば、要素として「主人公が年上の婦人とつきあう」とか!?)
斎藤先生のものすごいところは、こういう古典的な文学作品をテキストとして論じながらも、さまざまな領域へとつぎつぎに話が広がっていくところだった。(これはじかに話を聞いた人なら誰でも感じることだろう)
・先生の好きなプロレスとか、スポーツにつなげたり
・マンガとか、テレビタレントとか
・武道、芸道へとつなげたり
・マルクスとかメルロ・ポンティーのような難解な哲学とか
・下ネタとか……

斎藤先生の縦横無尽な脱線話を聞きながら「古典の生かし方」のようなものを私は学んだんだと思う。
「古典」をマニアックに理解したり研究したりするのではなく、領域をまたぎ超して読む、現代に置き換えて読む、自分の生活や関心との繋がりを見いだしながら読む。そういう読み方を身をもって示していただいたと思う。

「教養」とは、「古典」とは、それだけで、決して人生を要領よく渡り歩く処世術のようなハウツーにはならないだろう。日々の生活とは「距離がありすぎる」からだ。
しかしこの「距離がある」ということそのものに、教養なり古典の価値があるのだろうと思う。
今をいきる自分自身との生活を、距離を置いて、別の視点で振り返るための「装置」として、教養が、古典作品が機能している。教養はリフレクションの「装置」なのだ。
今目の前で起きている出来事は、「デミアン」のあの状況と似ているな、とか、この事件は、まるで「ファウスト」のようなものだ。とか、ニーチェだったらこのニュースについてなんて言うだろうなあ、とか。
こんなストレートな言い方で古典を思い出すものでさえないかもしれない。もっと自分の底で、価値観に影響を与え続け、ものを見るときの「めがね」の一つとなっているかもしれない。

先日、ある人とお話をして非常に感銘を受けたエピソードがあった。
教育哲学の研究者。現在は退職をされて悠々自適の生活を送っている。
その先生が、いまは自宅に、地域の先生方を集めて、教育関係の古典的な作品を読む読書会を開いているのだという。
で、それに参加しているある先生が、普段はそれこそ日々の仕事や生活に追われて、じっくりと本を読むような生活を送っていなかったんだという。
それが、この会で、教育哲学に関する本を読んで、目を開かされたのだという。
「今まで自分のしてきたことが、この本を読んで、何だったのかが分かってきた」というのだ。
きっとその先生の中で、教育哲学の本が、日々の仕事をふり返り、体験を意味づけるリフレクションの「装置」として機能したのだろう。

柱も土台もないリフレクションは、ひょっとしたら「下手の考え休むに似たり」になりかねない。柱や土台を意識するからこそリフレクションが回り出すということがある。
日々の生活とはちょっと縁遠いようにみえる古典や哲学は、まさにそれゆえに、日々の生活を掘り下げ、自分の柱や土台がどこにあるのかを確認する機能を持つ。
古典を、自分の生活に引きつけ、領域をまたぎ超して洞察し、リフレクションの装置として機能させることが、真に「古典を読んだ」「教養としての古典」となるのだろう。

教師教育をめぐって様々な研究や議論がなされているが、教師の自己形成(教養)という視点は外すことのできない根幹だと感じている。
目先の状況に要領よく対応する知識や技術(もちろん重要には違いないども)は、それだけでは、リフレクションの装置としてどれくらいの有効性があるのだろう。

私は大学時代、教育技術や授業技術というものをほとんど学んではこなかった。
大学での学習が、教師という仕事に、人生に、具体的にどれくらい役に立ったの?といわれると、それに答えることは難しい。確かに古典や文学を読むことは直接は役には立たなかったかもしれない。しかし、自分の価値観、教育観を磨くために、古典をたっぷりと読み、「教養(ビルドゥングス)」を身につけた4年間はかけがえのない価値を持つものであったと感じている。

2014/08/07

裁判を傍聴してみた

夏休みで平日時間がとれたので、以前から興味のあった裁判の傍聴に行ってみた。
もし裁判を見に行きたいという奇特な人がいたなら参考にして欲しい。

今回訪問したのは霞ヶ関の東京地裁。
裁判傍聴ビギナーは地裁がおすすめらしい
最高裁は形式的な文書の読み上げとかが多く、あまり面白くないそうだ。
東京地裁はとても多くの法廷が開かれているので、いつ行っても何かの裁判は行われていて傍聴できるのがメリットだ。

なお、裁判員裁判などの日程については、「裁判員裁判日程カレンダ−」のサイト上で公開しているものもある。

まず、裁判所に入ると空港のような荷物検査を通過する。
正面のカウンターに人が群がっているのでそこに行くと、開廷しているリストを読むことができる。
リストには、法廷の番号、犯罪名と容疑者の名前、そして裁判の過程(判決とか審理とか)が書いてある。(今日見た刑事裁判のリストは麻薬や覚醒剤が6~8割、強盗、強姦などが1割、残りはその他といった感じだった。民事はサラ金が多い印象)

このリストを見て、法廷まで行く。(東京地裁には数え切れないくらいの法廷がある)
(人気のある裁判は傍聴券を発行するらしいが、特に今日は傍聴券を発行するような裁判は行われていなかった)
法廷の出入りは自由。途中で出ていっても良い。
法廷の大きさはさまざまだ。最初に行った法廷は、教室くらいの大きさで、傍聴人が30人くらいは収容できる広さだった。次に行ったのはその半分くらいのコンパクトなものだった。
法廷の中身は、火曜サスペンスとか映画などでイメージするのとほとんど同じ。
正面には法服を着た裁判官、その真ん中に容疑者が横向きで座っている。両サイドには弁護士と検事が向かい合って位置する。
法廷に入ると「おお、テレビドラマみたい!」って思わずつぶやいてしまいそう。

私が見に行った裁判は、はじめは強姦致傷、次が強盗致傷のものだった。
どちらの被告もなぜかジャージを着ている。そして見るからに悪いことをいっぱいしてそうなお兄さんだった。目が合いそうなのがちょっと怖い……。
弁護士も検事も、今回は比較的いきのいいワカモノだった。裁判官に向かって、かっこよくまくし立てていた。(これもテレビドラマっぽかった!)
裁判は基本的には法律用語なので時折難しい言葉が出てくるのが聞き取りにくい。「……と思量します」のように。だけども、犯罪は至って単純なものなので、その辺は難しい言葉を聞いてもある程度はイメージができた。
裁判官は人のいいおじさんといった風情で、時折質問を挟む。
「時間は30分までですが、全部読むんですか?もうちょっとはしょって説明してくれませんか?」
「NPOをNOPと書いてあったのを訂正してくださいね」
「今のは弁護人の意見と言うことでいいですか?」
「最後に、あなた(被告)に発言する機会があります、いいですね」
という感じ。
二つ目に見に行った、強盗致傷の事件を起こした黒いジャージのお兄さんは、窃盗などの常習犯で以前も一度執行猶予を食らって犯罪を起こしている。今回も、牢屋から出てきたんだけど、すぐに失業してしまい、それで包丁を手にして女性を襲ってしまったらしい。
女性にはほとんど怪我がなかったのが幸いだが、20~30代くらいの若い男性の後ろ姿には、すこーしだけ社会の縮図というか、人生を垣間見た気持ちになった。

それほど重大な事件ではなさそうな雰囲気だったが、それでも法廷は独特の緊張感がただよい、ディベートのような言葉の応酬が見られてとても勉強になった。
※これが裁判員裁判だったら、もっとプレゼンテーションとか大々的にやって分かりやすいものらしい、重大事件も多いし。今度は裁判員裁判を見に行きたい。

日常生活では滅多にお世話になることのない裁判所だけれども、ひょっとしたら生徒たちが裁判員に選ばれることがあるかもしれない。また、裁判で交わされている言葉について知ることが必要だと思って傍聴してみたわけだが、弁護士と検事とのディベートの生の現場を見ることはとても貴重な機会であった。
もう少し裁判の知識を身につけてから行くとさらに内容も理解できて勉強になると思った。

帰りに地下の売店に寄ってみた。
売店の書店には法律関係の本がたくさん売られている。
こんな本もあった。

季刊「刑事弁護」(2500円)特集は「裁判員裁判をどう戦うか、弁論技術」(「月刊総合教育技術」のようなものか??)
こんな本も売っていた。


「弁護のゴールデンルール」
この本はすごい。聴き手の心理を巧みに掴む弁護の技術について詳細に分析している。
ディベートなどですぐに応用可能だろう。
たとえばこんな感じ。
○伝えることを意図していない視覚的情報は決して伝えるな
(驚いているように、悩んでいるように、必死であるように、
人を操っているように見られてはいけない)
○弁護士が法廷で自分の意見を述べることは許されない
○最終弁論では証拠に基づく事柄しか述べることができない
○事実認定者を楽しませよ
(彼らに物語を伝えよ、始まりと中間そして結末を考えよ、流れを持続せよ)
○削れるところはすべて削れ
○自分の声の音量を知れ、話すスピードと音質を変化させよ、
タイミングと中断の力を知れ、音量を上げる時は細心の注意をせよ
○好人物であれ
○共感を与えよ、事実認定者と同化せよ
○要求する代わりに招待せよ、教える代わりに提案せよ
○予め自分のほしい答えを考えてその答えだけを得られる質問を組立よ
○事実そのものを扱っているのではなく証人が事実であると
信じているものを扱っていることを忘れてはいけない
○”Yes or No”で答えを要求する際には注意せよ
(取調べの雰囲気を取り除くため慎重に)
○決して証人と論争してはならない
この二冊は思わず購入したことは言うまでもない。
さらにさらに、最近は裁判員裁判の啓発用にいろいろな資料を用意しているらしく、ただでいろいろなパンフレットやDVD資料をいただくことができた。

下記はホームページでも公開中で見ることができる

さまざまな裁判員裁判広報用の動画も公開されている。
アニメーション「ぼくらの裁判員物語」

(内容)高校生の恋愛を軸にした親しみやすいストーリーをベースに,刑事裁判及び裁判員制度のポイントを分かりやすく説明したアニメーションです。(あらすじ)敬慈高校に通う別所翔太。彼は同じクラスの栗原茜に片思い中。告白する機会をうかがう別所。そんなある日,ふとしたきっかけで,別所は栗原が裁判官に憧れ,「裁判員制度」に興味があることを知る。「裁判員制度」とは,国民のみなさんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい,被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう制度。栗原と親しくなるためのきっかけづくりにと「裁判員制度」について,幼なじみの進藤進とともに調べはじめる別所。図書管理の涼子先生から,『模擬裁判 -裁判員制度はこうなる-』という教材DVDを借り,見てみることに。そして,ひょんなことからDVDを一緒に見ることになった別所と栗原。それまで遠かった別所と栗原の距離は近づいていく…。どうなる?別所の恋の行方?
……恋の行方って関係あるか?

これらも、何かの機会に活用できるかもしれない。



2014/08/05

「場の教育学」断章 ~コミュニケーション教育の常識を疑う、その1~

「何を言ったかよりも誰が言ったかのほうが大事!」の違和感
というよりも、これは嫌悪感のほうが強い。
そういうことは、ある意味現実なのかもしれあい。
だけれども、こういう言葉を平気で、他者に向けて言える人の神経を疑う。

あなたは、言ったことの内容よりも、言っている「人」で判断するんですね。
どんないい言葉も、つまらない人間が言ったらダメと言うことなんでしょうか?
偉い人間が言ったことは、どんなにくだらない言葉もありがたがるんですね。
で、結局、つまらない私なんかの「ことば」を「ことば」として受け止めてくれるのでしょうか?

でも、私が本当に問題にしたいのは、「ことば」でも「人」でもなく「場」である。
「何を言ったかよりも誰が言ったかよりも、どんな『場』で発せられたか」が大切なのではないか。
発せられる言葉は、それを受け止める相手がいることはもちろんだけども、どんな「場」(時間、空間、人間関係などの状況)で発せられたかということが決定的に重要なのではないか。
「偉い人のすばらしい名言」が、それだけではほとんど意味がなく「ことばが一人歩き」してしまい、まるで「居酒屋のトイレに貼ってある親父の小言」のようにむなしく響くさまを日々目にしてしまうのは、その言葉にぴったりの「場」ではないからだ。「場違い」だからだ。
反対に、言葉としては取るに足らないようなものでも、「場」にとってかけがえのない言葉であれば、それはその場にいた人にとっての「名言」となる。そういうことばは「誰が」言ったかなんて問題じゃない。「なんという言葉か」と言うことさえ意味を持たないかもしれない。
「場」によって、言葉は光を放つ。
考えるべきは、人と人とが生み出す出来事の「場」ではないか。

中学生は言葉遣いもいいかげんで、授業では発言をしないんですよ……
たしかにそういうことはあるかもしれない。教室という「場」では。
しかし、中学生だって、言葉を発したくなる「場」に立つと、言葉も輝きを増す。
たとえば、職場体験や、地域との交流をすると、普段の生活では考えられない「ことば」が中学生から飛び出してきて驚く。
教室では粗雑な言葉を吐いて先生を困らせているような生徒も、一対一の空間で、心を開いてじっくりと話を聞いてみると、全く違った「ことば」が彼らから聞くことができる。
「場」がそのような力を、「ことば」を引き出したのだ。

書き言葉と話し言葉の違い
書き言葉と話し言葉の違いはいろいろとあるけれども、ここでもやはり「場」が決定的に違うのだという結論に至る。
書き言葉の「場」はある程度緩やかだ。そして書いたものが「場」を超えて飛び交うことも可能になる。(時間や空間など)
その反対に、話し言葉は「場」(時間や空間、聴き手の存在など)に強く規定される。
話しやすい「場」というのは確かにある。話しにくい「場」というのもある。
それはきっと個人の能力を超えた「関係の磁場」のようなものである。
書き言葉のたとえで言うと、ペンを取って紙に書く場合、書きやすい紙と書きにくい紙とがある。つるつるしすぎず、適度にペン先が引っかかってインクの発色がいい紙は書きやすい。反対に、つるつるしすぎたり、紙が波打っていたり、水に濡れてぐちゃぐちゃだったりすると、どんなに書きたい「ことば」があったって書けない。
書き言葉だって、話し言葉だって「紙」の存在は決定的に重要だ。
話し言葉の場合、その「紙」=「場」の存在は目に見えにくいし、自覚することもむずかしい。物質的な「紙」とちがって、時間的、空間的、心理的な距離などの様々な要因が複雑に絡み合う。

個人の力よりも場の力
そろそろ、個人の力よりも関係の力、そして場の力と言い切ってしまっていいのではないか。
学校という「場」。「クリエイティブな関係性が現出する場」とはいったいどのようなものなのかを考えていくべきではないのか。
齋藤孝の「天才がどんどん生まれてくる組織」は、そのような「場」の力について取り上げた文献だ。


齋藤は、数々の突出した才能を、個の力に還元するのではなく関係の力、組織、場の力として論じている。
彼が取り上げた組織とはつぎのものである。
目次
第1講  猿飛佐助は個性を超える
第2講  ヨハン・クライフとカルロス・ゴーン
第3講  世界的音楽家を輩出した齋藤メソッド
第4講  奨励会というスーパー教育システム
第5講  サッカー選手養成組織 清水FC
第6講  宝塚音楽学校の密封錬金術
第7講  藩校の教育力
第8講  スター誕生!
第9講  漫画家の青春溶鉱炉
第10講  週刊マンガ誌という怪物
最終講義 「なにを研究してもいい」理研を育てた太っ腹キャラ
将棋の奨励会、宝塚音楽学校、手塚治虫のトキワ荘、そして最近何かと話題の理研など、おなじみの組織も取り上げられている。
言うまでもないことだが、個の力は関係の力、場の力によって大きな影響を受ける。(状況に埋め込まれた学習)

場はスタイル(関係の様式)を引き出す
今年の夏も、様々な場所に訪れてさまざまな話を伺うことができたが、そこでも痛感したのは場の力であった。
音楽でたとえると、同じベートーベンや、モーツァルトの作品を演奏するにしても、ドイツの指揮者と、フランス、そしてロシアやラテン系の指揮者ではなんとなくスタイルが違う。
俯瞰して比較すると、個人の力よりも場の力が大きな影響を与えていることがわかる。
私が私であるのも、彼らが彼らであるのも、場の力に半分以上負っている。
普段はそれがほとんど無自覚だけども、いつもの場を離れ、様々な場の方々にお会いするとそれを強く感じる。

だから、場を考えること抜きに、コミュニケーション教育を考えることはほとんど意味を持たない。
どのような場が人を育てるのか、言葉を育てるのか。コミュニケーション教育では、その核心をこそ考えるべきなのではないか。
「場」を「環境」といってしまうとざっくりしすぎて見えにくくなる。もっとその「細部」を取り出し、くっきりとした「構造」を描き出すことはできないだろうか。

相手意識より公共意識
話す聞く指導では「相手意識」が必要とよく言われる。
しかし、まずはその常識を疑ってみたらどうか?
むしろ目の前の相手に顧慮し過ぎて、遠慮しちゃって萎縮することの方が多くないか?
たとえば、どんな場でも自己をガンガン主張する欧米人は、相手意識というものを持っているのか?
そもそも相手意識という概念があるか?
むしろ「場」に対する応答責任、公共意識という面が強いのかもしれない。
コミュニケーションを、「相手に対するもの」という、個対個のやりとりに矮小化するのではなく、人と人とが出会う「出来事の場」、「分かち合う場」への参加意識、公共意識と捉えることはできないのか?
(日本人にとって「公共」という言葉ほどしっくりこないものはないけど)

公共意識の本質は「責任」Responsibility(レスポンスする・能力)
応答能力が、公共への責任。場への参加意識。

たとえば、学校の「いじめ問題」には、解明するためのさまざまな切り口が考えられるが、日本の、学校の「場」という視点、コミュニケーション、公共意識から考えることもできるかもしれない、
下記の文献『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』はそういう視点から書かれた本である。

「いじめ」の問題は、誰が言ったか、何を言ったか、という問題よりも「どんな場(時間、空間、人間関係=コミュニティー)で発せられたか(発しなかったか)」ということが最も鮮烈に問題化される状況である。

また、新たな「場」としてのサイバー空間、SNSなどの不特定多数の匿名空間の問題についてもこれからは考えていかなければならない問題だろう。

参考)それについて論じた過去の記事
書く生活はどう変化したか? どう変化するか?
相手意識と自分意識

この辺を深めていきたい。