2015/05/24

たまりにたまった教育雑誌は自炊してデータベース化を

月刊国語教育研究をPDF化してデータベースに
 
 
自炊の第二段階。
友人のアドバイスにより、たまりにたまった月刊国語教育研究をPDF化していくことにした。
AdobeReaderの「高度な検索」を使えば、複数のPDFファイルから任意のキーワードを一気に検索して取り出すことができる。これは便利!
これで雑誌のベータベース化に成功!
なお、Googleドライブにぶち込んでおけば職場からでも検索可能!


表紙は記事を探すのに便利だから取っておいて、あとは処分。
表紙は検索用に保存


もったいないような気がするけど、読んで活用しない方がもっともったいないと言い聞かせて、断腸の思いで今日も自炊を実行させていただいた。
さて、ここからどんな化学反応が生まれるか楽しみだ。

2015/05/23

わが自炊作法

最近はどうも視力が落ちてきて、文庫本などの細かい字の本を長い時間読むことがついにできなくなった。
しかし年々読みたい本、読むべき本は増えつつある。
そこで苦肉の策で自炊を断行することにした。
まだ自炊ビギナーだけれども、現時点での試行錯誤の様子を報告したい。

1 何が必要か
・パソコン
読み込む際に使う。

・タブレット
パソコンでも読めるが、電子書籍はタブレットと相性がいい。
ちなみに私はiPadairで閲覧している。
本を読むときのソフトはi文庫がお気に入り。
他の端末でももちろんありだろう。(電子書籍専用の端末もあるそうだけど、まだそちらには手を出していない。ちなみにKindleの端末は、PDFの拡大ができないので私にとってはNG)

・スキャナー
私が愛用しているのはScansnap s1300i」という機種。
もっと高いものもあるらしい。
これは今後どんどんいいのが出てくるでしょう。

・ディスクカッター
本を裁断するために使う。
オルファ ロータリーカッターLL型 136B というのを使っている。
これも学校にあるようなごっつい裁断機でもいいんだけれども家庭用だったらこれで十分満足している。

・カッティングボード
本がおけるくらいの大きさであれば何でもよい。

・定規
カットするときに使う。

2、自炊の手順
①本をカッターで切るために、細分化する。
いっぺんには切りにくいので、ページをひっぱりながらめくり、カッターで100ページくらずつにばらしていく。

本を分解



このように3つに分けた
②ページを裁断する

いうまでもなく、この段階が最も神経を使う。
失敗したら取り返しのつかないことになる。
初めのうちはうまく切れなかったり、切る位置を失敗したりした。
すこしずつ裁断していけばそれほど難しくはないが、まずはいらなくなった本などで裁断を試してみることをおすすめする。

いよいろ裁断。緊張の瞬間!

表紙も切り取る
③スキャンスナップで読み込み
これも何回かに分けて読み込んでいく。
結構重要なのが、スキャンの読み込み設定だ。
読み込む前にある程度方針を決めておかないと、後でスキャンし直す羽目になるので慎重に検討しよう。
おもに検討するべきことは、読み込む画質とカラーモード。
画質が低いと見づらいし、高いとデータ量が増える。
カラーモードは読みやすさに影響する。
ちなみに私は次のような設定で保存している。

画質:スーパーファイン
カラーモード:白黒
読み取り面:両面読み取り
ファイル形式:PDF
原稿サイズ:サイズ自動検出
その他:白紙削除、向き補正

カラーモードを白黒にしたのは、ページによって茶色だったり白だったりと変わって認識される可能性があり、読みにくくなってしまうからだ。表紙が白黒になってしまうのは残念だが、いちいち分けてスキャンするのも面倒なので我慢している。
カラーページが多い本は当然カラーモードで読み込むようにすべきだろう。

どんどん読み込まれていく。かなりハイスピード!

④パソコンに読み込み
スキャンし終わると、自動的にパソコン内にPDFデータが保存される。
このときにテキスト認識できるようにしてくれるので、後で検索したりコピーするときにとても便利になる。(スキャンスナップのソフトで自動で処理される)

⑤PDFデータをクラウドにあげる
デジタル化したデータは、ドロップボックスとかグーグルドライブとかにアップロードする。
(これもスキャンスナップのソフトでできる)
このようにドロップボックスに送り込める

⑥i文庫からクラウドにアクセスしてiPad内で読めるようにする。
i文庫ではドロップボックスやグーグルドライブなどのクラウドにアクセスできるので、そこからファイルを読み込み、ダウンロードすることでiPadで読むことができるようになる。
iPadに読み込まれていく。表紙が白黒なのが残念。

i文庫で読むとこんな感じ。かなり鮮明でしょ。ページ送りもスムーズ。
やっぱり紙の本がいい!という人には決してお勧めできないけれど、自炊による電子書籍の読書は、私に次のようなメリットをもたらしてくれた。
・細かい字の本も読めるようになった
・通勤電車などで、重い本を開く苦労から解放された
・本棚がすっきしした(これは今後見込まれるメリット)
・いつでも、どこでもタブレットさえあれば、さまざまな本を持ち歩き、それを読む楽しみを与えてくれた。
などなど。
興味がある人はぜひお試しあれ。
(もっといい方法を知ってるよという人は教えてください)


SFマインドを持っている経営者

 
岡田斗司夫さんのメールマガジンを愛読している。
先日面白い投稿があった。それは「SFマインドを持った経営者とは?」というテーマに対するコメントだ。
SFマインドを持った経営者は、何がどう違うのか?
端的にいうと、それをもっていない経営者は、新しいテクノロジーが生まれたときに、それを従来の技術と置き換えたり、その技術を今の世の中にどう適合させようか腐心をする。それでお金が儲からないか考える。
しかし、SFマインドを持った経営者は、新しいテクノロジーが生まれた時に、従来の技術と置き換えたり、今の生活のなかでどう活かそうか考えるのではなく、それによって社会や人々の生活そのものが、どう変化するかを考え、一手を打つという発想になるのだそうだ。
その具体例としてyoutubeとニコ動を取り上げ、youtubeはテレビ局の代替レベルにとどまっていて、SFマインドそれほどないといっているんだけど、ニコ動はSFマインドを持っていると述べている。
それは、ドワンゴが「メガチャンネル時代になったら、みんなは番組を見るのではなくて、番組に参加するようになるに違いない。そうなったら、コメントをつけやすい番組とか、盛り上がりや炎上を共有させるようなプラットフォームだけが伸びていくだろう。」と想定したからだとのべている。こういうところが「SFマインド」を持っている証左なのだそうだ。
 
たとえば、ドローン一つ取っても、これを単なるおもちゃと捉えている人は前者だろう。しかし、ドローンの技術によって、どう生活がが変わるか、社会が変わるか考えようとしている人はSF的発想を持っていると言える。
(警察ドローンとか,広告ドローンとかの構想は聞いたことがある。きっと。私が生きている間にドローンが巨大化し、ドローンタクシーとかできるんじゃないかと思っている。そこまで生活が変化したら、どんなビジネスチャンスが生まれるのだろうか。)

2015/05/20

今年もカオスな自主研究

今日から「自主研究」が本格的にスタートした。「自主研究」とは各自が好きなことを好きなだけ研究する(調べたり、作ったりなど)総合の取り組み。何を取り組むかというテーマの制約、制限は一切ない。その生徒から出されたテーマを、大まかな括りでグループ分けして教員が支援をしている。
私の担当は去年と変わらず「暮らしと文化」。いわゆる一つの、他のアカデミックなカテゴリーにはなかなかはまりにくいアウトローたち?が集うグループだ。
去年と引き続きの三年生と、二年生の新入りが集まり、総勢30名越えの大所帯。
たとえば、こんなテーマで研究をする二年生たちが集まってきた。
・都営バスの進む道
・文房具デザインの秘密
・秩父の魅力に迫る
・マナーについて
・地下空間における緊急時対応ハザードマップ
・少子高齢化社会の問題点
・今、日本の女子は何を求めているのか
・人類滅亡はいつなのか?
・トランプのルーツ、そしてゲームに勝つ方法。
・海外セレブから見る効果的な「イメチェン」の方法
 今年の自主研究の指導もやりがいがありすぎで困っている。

研究は「自分で回してナンボ」
今日の自主研究では、新入りの二年生が説明する研究テーマに対して、古参の三年生がその研究のアドバイスをするというグループワークを行った。
・この研究のゴールはどうするつもり?
・アンケート採ってみるといいよ!
・やっぱり現地に行ってインタビューしてみたら?
・このテーマだと、資料が集まるか不安だね。他のアイディアは?
・資料集めただけじゃダメ。自分で考えたことも何か提案できるといいね。
 
いっちょまえなもんである。三年生。
去年、私がコメントしたことをそのまま二年生の後輩に伝えている??
ともあれ、去年の自主研究の一年間で、かれらは、いっぱしの「研究者」に育っている。
それで、どんな研究テーマに対しても、いっぱしのコメントを言えるくらいにまでは成長することができている。
どんなテーマでも、つたない研究でも、自分にとって切実だったり愛着を持った研究テーマのものであれば、結果はどうあれ「研究者」としての「目」が育っていくものなのかもしれない。これがやらされた「課題レポート」ではこうはいかないだろう。
研究は自分でやってみて体得していくもの。理屈だけを聞いていても身につかない。
とにかく研究は「自分で回してナンボ」なんだと感じ入った次第である。

2015/05/19

「謎句」を探求する句会

以前お誘いがあって参加した句会では、ユニークな方法で作品を批評をしあっていた。
それは、句会の中で「一番いい句」を選ぶだけでなく「気になる句」「しゃべりたい句」についても選んで語ってもらうという方式だ。
「いい句」だけのチョイスだと、どうしても読み手の理解の範疇に入る「わかりやすい句」「きれいな句」が選ばれる傾向になってしまう。
しかし「気になる句」「しゃべりたい句」を選ぶ際は、よくわからないんだけど何か引っかかるんだよなあという句や、なぜこういう表現になるか理解のできない句に対しても鑑賞してみようという構えが生まれる。

この方式で語り合った句会が実に楽しかったので、早速、授業で行う句会でもこの方式を試してみることにした。
題して「謎句」部門。
 
句会ではグループごとに二つの部門から「天・地・人」を選出してもらう。
二つの部門とは「名句部門」と「謎句部門」である。
「謎句部門」とは前述の「よく意味が分からないんだけどなぜか気になる句」や「多分こうなんじゃないかなと予想した句」、「本人に聞いてみたくなる句」を選び出してもらう。

披講では、各グループから「名句」「謎句」の選を述べてもらうが、そのときに名句に対する鑑賞コメントか、謎句に対する疑問、多分こうなんじゃないかという予想コメントのどちらかを必ず述べてもらうことにした。

なんといっても面白いのは「謎句(なぞく)」に対する読みだ。
しばしば作者が想定したものと全く違う解釈を読者がしていて、その意外性に大爆笑をしてしまう。

たとえば、こういう句。
 
桜散り二つの視線が交差する
 
この俳句だけを読めば、散る桜を目で追っていた二人の目が偶然会ってしまった、という情景か。(しかも、ちょっと気がある二人なのかも??)
おおかた生徒はそういう予測をしていた。
しかしその結果は……
夜、民泊先でドライブに連れて行ってもらったときに偶然発見した鹿の二つの目が、ライトで照らされて光っていたことなのでした!


もうひとつ。

ごめんでも春のあなたは多すぎる

という句。
「春のあなたっていったいなんなんだ?」と読み手はいろいろと想像するけれども、いっこうに答えが出ない。まさに「謎句」だ。
しかしその答えは……なんと「つくし」だった。
春の野原を歩いていた時に、たくさんのつくしが生えていた。それをよけてあげようと思うんだけれどもあまりにも多くて踏んでしまった。
そのつくしにむけて「ごめん。多すぎて」と感じているのだ。
そういうエピソードを聞いて、この子はなんて優しい子なんだ、とクラスメートの誰もがそう感じたのは言うまでも無い。



今回の俳句は「謎俳句」として、地の文と響き合って始めて理解できるような俳句にするようにあらかじめ作らせたという経緯もある。
「謎俳句」についての記事はこちら

だから、どの俳句も、俳句だけを読んでもなかなかわかりにくいような作品に仕上がっている。
そういう「謎俳句」だからこそ、読み手にとって、想像力が喚起されていろいろな「誤読」が続出するという活動になった。

俳句だけを読んで意味が分からないようなものだダメだ、と思うかも知れない。
それには二つの反論がある。
一つ目。「おくのほそ道」のような文章では、地の文と句とが融合した表現になっている。
融合すればするほど、句単独では意味が取りにくいものになっているという事実だ。
たとえば、この句

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」

の御目を、あなたはどう読みますか?

「むざんやな甲の下のきりぎりす」

のかぶとは誰にものか、分かりますか?
『おくのほそ道』のこの句の該当部分を知っている人は答えられるけれども、知らない人は永久に理解することはできないだろう。
そもそもそういうふうに地の文と融合して作られているのだ。

もう一つ。「誤読」をどう考えるかという問題だ。
作者は「ある世界」を描き出そうと思って俳句を表現している。
しかし、その「ある世界」に、読者は完全に到達することができるのだろうか。「誤読」をゼロにすることは可能なのだろうか?
むしろ誰でも多かれ少なかれ「誤読」をしながら、それでも楽しめるのが俳句の魅力なのではないか。
俳句のことばが、作者を離れて勝手に歩き出し、読み手に「誤読」の世界を生み出していくという楽しさだ。

桜散り二つの視線が交差する
の「二つ」を、ちょっと気のある二人と読んで楽しんだってそれが間違いとは言えないし、

ごめんでも春のあなたは多すぎる
に、いろいろな含意を感じ取る人がいたっていい。
むしろそういう「創造的な誤読」のできるような楽しみ方こそ、俳句の世界の醍醐味なのではないかとさえ思う。

「謎俳句」の創作&鑑賞は、このような「創造的な誤読」を誘発するなかなか楽しい学習になった。
少しだけ生徒の作品を紹介する。
芭蕉の『おくのほそ道』のように、地の文と俳句とが融合した表現に近づいているだろうか?












 

「仮説の自己成就」を超えて

「仮説実験授業」に傾倒していたことがある。といっても「仮説実験授業」はほとんどが理科の実践だから、自分の実践にはあまり影響を与えられていないとは思う。
しかし、「何をするにも仮説実験」のあの発想の面白さには、何度も膝を打ったものだ。


よく校内研究などの実践研究で、仮説が必要かどうかが議論になる。仮説のない研究はよくないのか? むしろ仮説かあるほうが悪いのか?
私の結論をいうと、仮説はあってもいいと思う。仮説を明示することの効果も確かにあるだろう。
しかし最大の問題は、一度立てた仮説に実践が縛られすぎることと、縛られるようなチンケな仮説をそもそも立てていることにあるのではないか?
 (それは実は仮説を明示しているかどうかは関係が無い。明示していなくても無意識の前提や思い込みが隠されていることだってあるのだ)

「予言の自己成就」という言葉がある。仮説がお粗末だと、なんとか研究を形にしようと、そのお粗末な「仮説」という予言に実践を従わせる結果になる。
そうならないための、とっておきの方法がある。それは、仮説を100パターン立てることだ??
まあ、そんなにオーバーでなくても。正反対の可能性や、別の角度からの検討も、等しく「仮説」として念頭においておくのが有効だ。
そして途中の路線変更や撤回も柔軟に行っていく。そうすればはじめに立てた仮説に縛られずに、常に前向きに、貪欲に実践を捉えようという気になる。


「こんなのアクティブラーニングじゃない」「これぞアクティブラーニングだ」とか、「この指導法は誰々先生がおっしゃってたものといっしょだ」「ちがっている」とかいう、お粗末な「仮説の自己成就」のさまを見聞きするたびに、なんてつまらない研究してるんだろうなあ、なんと勿体無いと、残念な気持ちになってしまう。
彼らの頭の中には「あるべきアクティブラーニング」や、「望ましいカリスマ実践家の理論」という「仮説」が鎮座ましましているからだ。

2015/05/18

実習生と文学的文章の教材研究をする

今日は放課後2人の実習生が来校し、来月から始まる実習の教材研究を一緒に行った。
取り上げる教材は「形」(菊池寛)と「風の唄」(あさのあつこ)の文学教材。
お互い下読みをしてきているので、雑感や印象を述べ合いつつ内容を確認していった。

一通り内容がつかめたあとで、この文章を授業として取り上げるための、素材研究の段階に入る。
大学生ならこれらの文章をなんとなくセンスで読めてしまっているんだけれども、それにはどのような方略を選択しているのか、それをあらためて言語化して取り出していく作業を行った。
その結果、上記二つの文章を読みときに、私たち三人は次のような方略を取り上げているということが明らかになった。
・場面の移り変わりに注意して読む。(回想シーンなど)
・登場人物の人間関係を押さえる。
・登場人物のキャラクター設定を考える(性格・能力・考えの傾向など)
・主人公と他の登場人物と対比してみる。
・カギとなる場面、クライマックスはどこになるか考える。
・印象的な場面や、キーワードとして頻出する言葉に着目する
・ものごとの因果関係でわかりにくいところを推測する。
・主人公の行動の動機をさぐる。
・視点(話者)をとらえる。視点の転換を考える。
・伏線とその回収の対応関係を考える。
・登場人物の心情の変化とそのきっかけに着目する。
・心情をつかむ(モノローグ・態度などから)
・言葉の持つイメージ、象徴性・暗示・隠喩の示すものを考える
・情景描写の効果について考える
・文体の特徴、印象について考える
たった二つの文章でも、実にこれだけ(もっとある?)の方略を使って、文学的文章を読み取ろうとしていることがわかる。
もちろん、授業では、これらの方略の全てをしらみつぶしに取り上げ、教える必要はない。それでは授業がくどすぎてしまう。
そうではなくて、この文章の、この「ツボ」を押すと、読みが一気に深まるようなポイントを考え、焦点化させることが必要だ。その「ツボ」につられて、他の方略も自然と引き出されていくような活動にしていこうということになった。
その「ツボ」がなんなのか、どういうアプローチをしていけばいいかを考えるのは、次回の打ち合わせで。それまでに、これらの方略を活用しながら読むことのできる言語活動を考えてくるように宿題としてもらった。
それにしても、ある程度文章が読めるようになった段階の学習者なら、このように読む方略を言語化して取り出すのは、シンプルなようでなかなか効果的な学習になるかもしれないと思った。(もっとも、それができないから苦労するのだけれども)

2015/05/17

Lineで授業ノートのシェアはあり?

昨日の勉強会で印象に残ったのは、最近の大学生は、大学の講義ノートを友達から借りて写真に撮り、Lineでシェアしあっているという不届きなやつがいるという報告だった。
(私も不真面目な学生だったら、よく優等生の友達にノートを借りてコピっていたけど)
しかし、あらためて考えると、このノートシェアと、その大学の先生の教科書を買って(図書館で借りて)読むのとで一体何が違うのだろうか。
何か悪いような、悪くないような気もしてくる。考え始めると夜も眠れなくなる。

電子教科書を単元単位でばら売りして欲しい

音楽業界では、ストリーミング配信による売り上げがついにCDを上回ったという。(2014年)
一枚のCDを買うよりも、一曲単位でばら売りされたものを買って楽しむのが一般的になったことを表している。
おそらく書籍も、電子書籍化しKindleなどで配信されるのが一般的になればコンテンツ単位の「ばら売り」が一般的になるだろう。(新聞は既にそれに近づいている。多くの人が、一部の新聞紙ではなく、ヤフートピックスなどからコンテンツ単位で記事を読んでいる)
それらは技術的には全く不可能なことではない。
電子教科書も近いか遠い将来、電子配信になるだろう。そうなったときに、一冊の「教科書」ではなく、教材単位のばら売りができるようになれば、より生徒の実態に応じてカスタマイズできるようになるのではないか。
Aの学習については〇〇書籍の教材を、Bの学習については〇〇図書のを、というように、単元単位、指導事項単位で、教科書教材をばら売りできるような整備が進むと教える側としてはメリットが大きい。
(少なくとも教科書検定に通っていれば、どの教科書会社の教科書を教材として用いるかは全く問題ないのでは)
そのネックは著作権? 教科書検定制度? そしてそれに伴うコスト?
ぜひ業界の方々にはがんばっていただきたい。

デジタル教科書私論 「教科書」のデジタル化か、デジタルによる「教材」の教科書化か

「デジタル教科書」は、二つの方向性がある。
ひとつは、従来の教科書をデジタル化するというもの。
いわゆるデジタル描図。

もう一つは、「デジタル教科書」を一つの情報プラットホームと捉え、それによって、社会のあらゆるテキストを「教科書化」「教材ー学習材化」するという方向性だ。
具体的には、Webなどのデジタルテキストのキュレーションへ、教材化へと向かうだろう。
さながら新聞などのメディアがYahooトピックスに吸収されるのと同じ変化が「教科書」にも起きるだろう。
二つめの方向性のボトルネックは、著作権と教科書検定制度。そしてそれに伴うコストだ。
それさえ「デジタル教科書」によってクリアできれば、日本の教育は大いに進展するはずだ。

電子教科書はスマート教科書と呼ぶべし。

ちょっとかっこわるいけど、いっそのこと「スマート教科書」って言ってしまったらどうだろうか。
どうも、「電子教科書」は紙の教科書の上位互換だと勘違いしている人が多いような気がする。だから、紙の教科書をいかに効果的に見せるか、読ませるかという発想にしか至らない。
しかし、一人一台タブレット端末時代に入れば、電子教科書の活用は、必定、タブレット端末のもろもろの機能をいっしょに使いこなしながら、その環境下で「電子教科書」も学習材として活用していく形になる。
だから「電子教科書の利用=紙の教科書の上位互換」では問題の本質を見誤る結果になる。
携帯電話とスマートフォントとで何がどう変わったか。
例えば、私が現在使っているスマホだと、次の機能がある。
(分類はかなり適当)
・スマートフォンの機能
1、コミュニケーションツールとして
・電話
・メール、メッセージ
・SNSで交流する
・ブログを発信する
2、情報収集ツールとして
・webブラウザ
・ニュースサイト
・天気予報
・時計(タイムウォッチ、タイマーなど)
・地図(Googleマップ、Yahoo!カーナビなど)
・ネットラジオ
・youtube
・国語辞書、植物事典
・翻訳サイト
3、記憶するツールとして
・写真を撮る
・動画を撮る
・メモを書く
・音声を撮る
・ドロップボックスなどのクラウドストレージ
4、発信、記号操作するツール
・キーノートのようなプレゼンソフト
・Pages、Wordのようなワープロ
・Excelなどの表計算
・計算機
・写真・動画編集
こう考えると、一人一台タブレット端末で電子教科書を活用すると言うことは、おまけで上記のような機能も日常的に使う環境ができたことを示している。
そう考えたときに、「電子教科書オンリー」で何ができるか、何をしようかと考えるだけではなく、「電子教科書+タブレット端末による環境」下でどのような学習ができるかということこそ考えなければいけない。そういう議論がどこまでできるのか,どこまでされているのだろうか。
板書を写真に撮っちゃダメとか、ノートは手書きじゃなきゃダメとか言っているようじゃ、いつまでたってもICT活用はおろか、スマート教科書(デジタル教科書)の活用もおぼつかないだろう、
2015/05/17現在のスマホ画面

2015/05/16

小学校の漢字指導は「活字」を目指し、「活字」は手書きを目指す、 あるいは教育界における「ポップ体」の蔓延について

点画や、はね、はらいの細部までにこだわるマニアックすぎる漢字指導は、つまりは機械的な「活字」を目指そうという志向に貫かれている。
あそこまでいくとそれは「文字指導」ではなく「図形指導」「デザイン指導」に近い。「教科書体」にできるだけ近づくように、それを逸脱する文字は極力排除される。(テストでバツにされる)
しかし、面白いのは、ICTが発達し、字体(フォント)も重要なデザインの一つであるという認識が共有された結果、手書きに近いフォントも様々に生まれ、親しまれてきているという事実だ。(「手書きフォント」っていうのもあるし。
つまり、ICTの発展により、フォントは、機械的な字体から手書きのバリエーションの豊かさへと志向しつつある。
例えば、教育界で不動の人気を誇る「ポップ体」。あの字に酷似した字を漢字テストで書いたら、おそらくバツが続出するだろう。しかし、教師は素知らぬ顔で「ポップ体」を使い続けている。その矛盾をどう感じているのだろうか。それを私は知りたい。

学力の汎用性と、学習の汎用性と〜「デジタル教科書」の目指すべき道は?〜

学力も、学習(学び方)もともに汎用性があるのが最上であるという信念を私は持っている。汎用性とは「社会に出てから様々な場面で使える」という意味でもある。
ある教科や領域にしか使えない学力では、社会に出てからは使い物にならない。
ある能力に特化した学習方法では、社会に出てから自分で学んでいく際に活用できない。
この二つ。「学力」については学力の領域固有性のデメリットとしてさんざん論じられ、ようやくそれを乗り越えようとする実践が生まれつつある。
しかし「学習」の汎用性についてはあまり論じられないのは昔から不思議でしょうがなかった。その教科、教材、指導目標に通用する、どんなに効果的な指導方法であっても、その教科、教材、指導目標に「だけ」通用するのであれば、それはあまり意味をもたないのではないか。
例えば、教科書の説明文を読むときに、教師が凝りにこったワークシートを作成するとする。(凝りにこった「発問」でもそれは同じ)
たしかにその凝りにこったワークシートを使うと、その文章を読むことはできるようになるかもしれない。
だけど、そのワークシートが、そしてそれで得られた「読む力」が、他の文章を読む際には全く使えないのだとしたら、その「学習」は意味があるのだろうか。
それよりも、どんな文章を読む際にも使うことのできる「学習法」をこそ、教えるべきなのではないか。「この教材の学習で使った読み方は、他の文章でも使えるね。こんどは自分で本を読んだときにも使ってみたら?」と。
「学校」を卒業し、教師がそばにいなくなっても、自力で読める能力を付けることを主眼とすれば、そうすることは自明のことだろう。
「教科書」もそれと同様の宿命を持つ。
「教科書」がその「教科」にだけ通用する学習材を目指すのだとするならば、その効果は限定的なものに止まらざるを得ない。
実際、多くの生徒が、「学校」を卒業すると,教科書を捨ててしまう。それが「社会では通用しない」ということの一番の証左だろう。
「教科書」をその教科に止まらず、他の教科・領域の学習でも活用することができる、社会でも活用することができる。それを目指すとするならば、はたして「教科書」はどこまで必要なのか。「デジタル教科書」が凝りに凝った教材のバケモノとなったら、ますます社会から取り残されないか?
webで簡単に知識や情報が得られる現在、「デジタル教科書」は何を目指すのか。その答えを知りたい。

2015/05/14

アクティブラーニングな俳句学習〜「改悪例」で俳句鑑賞〜

以前から注目している詩歌鑑賞の手法で「改悪例を作る」というものがある。

「改悪例」の元ネタは、穂村弘さんに関連するブログで発見した

元の作品の魅力を台無しにしてしまうような「改悪例」を引き合いに出しつつ、それと比較してその作品の良さを表現する方法だ。
例えば、高浜虚子の名句
「春風や闘志いだきて丘に立つ」
だったら、
「春巻や豆腐いだきて丘に立つ」
といってみるように、あえて改悪例を引き合いに出して、元の句の良さを強調させていく。
ただでさえ取っつきにくい俳句の鑑賞学習を、「改悪例」というワンクッションを置くことで親しみやすいものになってくれるかもしれない。

ということで、早速授業をしてみた。
生徒には次のように四枚のスライドを紙で作ってもらう。

 1枚目
元の句を紹介。意味などを説明する。




2枚目
改悪例1
ちょっと言葉を変えてみる。


3枚目
改悪例2
やや大きく言葉を変えてみる。


4枚目
最後のこの俳句の「キモ」(魅力の中心)を説明。


 こんな感じで「改悪例」を作っていくことになる。
おおむね次のような思考の流れで作成していくことになる。
①俳句の意味、情景をつかむ。
②その俳句の「キモ」を探す。
③「キモ」を色々な言葉で言い換えて変化させてみる。
④③を元の俳句と比較して、どのように印象が変化したかを考える。

ポイントは次の二つ。
・言葉の変化をなるべく小さくして、意味の変化を大きくさせる。
・元の俳句の良さが際立つ「改悪例」になるようにする。

さっそくグループで夢中になって取り組んでいった。
4枚のスライドを作成したら、その場でiPadでパチリ。
教室のプロジェクターでそれを投影してグループごとに発表を行っていく。

完成した改悪例は次の通り 。
手書きスライドの順番は、
元の俳句の説明

改悪例1

改悪例2

この俳句の「キモ」
の順番です。


















































「改悪例」の作成は、俳句に苦手意識を持っている子ほど活躍できる楽しい活動となったようだ。
「改悪例」の活動の良さはいくつかあげられる。
・子どもは結構パロディーが好き。高い興味を示す。
・自然と俳句の「キモ」に近づいていき、元の作品や俳人のセンスに驚嘆できる。
・どんな子も活躍できる。どんな俳句も「改悪例」として許容できる。
・「よい」ことが「わるく」、「わるい」ことが「いい」と価値観が転倒している。(トランプゲーム「大富豪」の「革命」状態?)
・(本歌取りの効果)改悪として書き換えることで、優れた表現に馴染む。
・さらに、生徒が作った「改悪例」が必ずしも「悪く」なく、むしろ元の句よりも良くなる可能性に開かれている。元の句を越えてしまうこともあり得る。
などなど。

この学習の面白いのは、どんなに脱線しても最後はちゃんと俳句の「キモ」に迫ってくるということ。むしろ、無意識で「キモ」である表現を読み取れているからこそ、「改悪」で遊ぶことができるのだろう。そういう「キモ」に気づかせる手段として「改悪例」はなかなかの威力を発揮する。

俳句の表現の微妙なニュアンスをストレートに迫らせ、味わう学習を成立させるのは結構難しい。どうしても教師の解説中心で退屈な授業になる。俳句の鑑賞には取っつきづらいと思っている生徒が多いのは長年の悩みだった。
そんなときにふと思いついた「改悪例」の学習は、ちょっとしたゲーム感覚で、俳句の言葉の働きに気づくことができるなかなか使える学習活動になったと思う。