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2015/07/10

分類考

分類を学ぶとは?
今日は校内研究授業。一年生を対象に「分類」を学ぶ授業だった。
「分類」って考えれば考えるほど奥が深い。国語科としてはやはり「差異」とか「恣意性」といったような言語的な観点から「分類」を眺めてみたくなる。差異や分類の発想を突き詰めていくと数学的でもあるし、国語的でもある。連続量と離散量の概念など、こういう言語世界の精妙さに比べたら、シンキングツールなどで概念を図化することはどれだけ有効なんだろうか? (この場合の有効とは、他者に提示する場合と、自分の思考を深めるための足場がけにする場合の2パターンがあるだろう)
図表が有効なものもある気もするし、かえって粗雑に二分化してしまっているようなものもある気もする。そもそも最初から分類が明確にイメージできている場合はことさら図表を使う必要はないだろう。
やはり図表を使うと効果的なものとそうでないものの見極めが重要だ、というか、そもそも、そういう必要性を見極めることこそが学習内容なのではないか?

分類の恣意性
人が何かを分類しようとする。その分け方は常識的なものであっても、広い目で見れば結構いい加減なものだ。分類しようとする人の主観や文 化的背景に左右される。
たとえば良くある例だと、「兄と弟」「コメとメシとイネ」という差異、分類の体系は、日本語の文化を背景に持つ独特のものだ。
星座だって血液型だって、そういうのを知らない文化の人にとっては、必要としない文脈ではほとんど意味を持たない「差異」であり「分類」だ。
裏を返せば、「兄/弟」「コメ/イネ/メシ」や血液型の分類、差異のシステムを必要とする人がいるからこそ、文脈があるからこそ、こういう言葉が生まれ、分類が生まれたのだ。
だから分類をする背景とか意図、他の概念システムとの整合性のようなものを検討しないと「分類」を考えたことにならないのではないか?
なぜ「分類」をしたのか、「分類」をしたことで、どこに光が当たり、どんな世界が見えてくるのかを実感することが大切なのではないか?

おまけ、たとえば……
こんな「分類」の学習はどうだろう?
課題、絶対に分けられないものはあるのか?あるとしたらそれはどんなものか?
課題、九教科を、誰も思いつかないような分け方で分類してみよう。
なぜそのような分類にしたのか、どんな時にその分類が役に立つか、説得しよう。
課題、空欄に入る面白い言葉を考えなさい。
この世には2種類の人間が入る。それは( )と( )である。
など。

2015/05/20

今年もカオスな自主研究

今日から「自主研究」が本格的にスタートした。「自主研究」とは各自が好きなことを好きなだけ研究する(調べたり、作ったりなど)総合の取り組み。何を取り組むかというテーマの制約、制限は一切ない。その生徒から出されたテーマを、大まかな括りでグループ分けして教員が支援をしている。
私の担当は去年と変わらず「暮らしと文化」。いわゆる一つの、他のアカデミックなカテゴリーにはなかなかはまりにくいアウトローたち?が集うグループだ。
去年と引き続きの三年生と、二年生の新入りが集まり、総勢30名越えの大所帯。
たとえば、こんなテーマで研究をする二年生たちが集まってきた。
・都営バスの進む道
・文房具デザインの秘密
・秩父の魅力に迫る
・マナーについて
・地下空間における緊急時対応ハザードマップ
・少子高齢化社会の問題点
・今、日本の女子は何を求めているのか
・人類滅亡はいつなのか?
・トランプのルーツ、そしてゲームに勝つ方法。
・海外セレブから見る効果的な「イメチェン」の方法
 今年の自主研究の指導もやりがいがありすぎで困っている。

研究は「自分で回してナンボ」
今日の自主研究では、新入りの二年生が説明する研究テーマに対して、古参の三年生がその研究のアドバイスをするというグループワークを行った。
・この研究のゴールはどうするつもり?
・アンケート採ってみるといいよ!
・やっぱり現地に行ってインタビューしてみたら?
・このテーマだと、資料が集まるか不安だね。他のアイディアは?
・資料集めただけじゃダメ。自分で考えたことも何か提案できるといいね。
 
いっちょまえなもんである。三年生。
去年、私がコメントしたことをそのまま二年生の後輩に伝えている??
ともあれ、去年の自主研究の一年間で、かれらは、いっぱしの「研究者」に育っている。
それで、どんな研究テーマに対しても、いっぱしのコメントを言えるくらいにまでは成長することができている。
どんなテーマでも、つたない研究でも、自分にとって切実だったり愛着を持った研究テーマのものであれば、結果はどうあれ「研究者」としての「目」が育っていくものなのかもしれない。これがやらされた「課題レポート」ではこうはいかないだろう。
研究は自分でやってみて体得していくもの。理屈だけを聞いていても身につかない。
とにかく研究は「自分で回してナンボ」なんだと感じ入った次第である。

2015/04/24

「修学旅行で民泊」のメリット、デメリット

修学旅行で、現地の民家に泊まらせてもらうこと(民泊)が最近とても流行ってきているという。中学、高校はもとより、企業研修などでも民泊は取り入れられているそうだ。
民泊の受け入れ先にとっても、村おこしの観点で大変協力的に取り組んでいただいていることは間違いない。どのご家庭も、子どもたちを、「都会から訪れた孫」のように温かく、そして心を込めておもてなしをしてくれている。子どもたちの満足しきった表情からも、十分その成果を感じ取ることができた。(ついでに言うと、民泊先に子どもを預けてしまえば、日中は教員のやることはほとんどなくなる。)
そういうわけで、今後、様々な学校で、「修学旅行で民泊」のパターンは増えていくことだろうと推測する。
ただ、得るものと同時に失うものもあるのではないかと、ひねくれた私は考えてしまうのだ。
それは、子どもが完全に「お客さん」になってしまうのではないかということ。
受け入れ先のお家では「農作業の手伝い」や、紙すき、フラワーアレンジメント、お菓子作りのような体験プログラムを組んでくださってはいる。しかしそれとて(言葉は悪いけれども)中学生にできる範囲の「おままごと」をセッティングしてもらっているだけという見方もできる。
この、セッティングされたプログラムを選択する余地は、子どもたちにはない。受け入れ先の家に行くと、あれよあれよという間に、あてがわれた作業や体験を課せられ、それをやらせていただく。食べきれないほどのごちそうをいただき、そして満足して帰って行く。
それが悪いわけでも、成果がないとは決して思わないんだけれども、「修学旅行」の意義を考えたときに、本当にこれでいいのだろうかという思いが、私の硬い頭の片隅には浮かんできてしまう。