2015/11/06

批評の目覚めとしての食レポ

批評の題材に何を選択するか。結構頭を悩ませる問題だ。
「批評」というとどうしてもちょっと背伸びしたテーマ(時事問題とか社会について)語らせたくなる。それはそれでもいいんだけど、なんとなくそういう題材だと、実感からかけ離れた空理空論になってしまうような気がする。
結局は、批評の表現指導の力点をどこに置くかが問われるんだけど、そこを私は「自分の固有の感覚を言葉にして他者と共有する」と位置づけた。
その「固有の感覚」とか「自分なりのとらえ方」というものを前提にしないと、借り物の意見をいくら語らせたところで、それではそもそも批評はなり立たないと思ったからだ。
で、前置きが長くなったけど、その批評の入門的な題材として「食レポ」を取り上げた。

「食レポ」とは、グルメ番組などでリポーターが味を紹介することをいう。
「味覚」という、最も身体的で私的な感覚を、言葉の表現を駆使して他者と共有する。それこそが、ちょっと大げさに言うと「批評の芽生え」につながってくるのではないかと考えたのだ。
「おいしい」という感覚を「おいしい」だけでなく、こんなふうにとか、こんな感じで、と具体的に表現していく。そのための学習を考えた。
参考にした文献はこれ。知る人ぞ知る、大学生向けの文章表現のワークショップの本。面白いよ。

まず最初に、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の有名なくだりを紹介。
何の食べ物だと思う?? (横書きでちょっとかっこわるい)
正解は……

と、こんなふうに、一切れの羊羹でもこれだけ奥行きのある表現ができるのだ。
つづいて、このように味わいを表現するためのテクニックを紹介。(このへんは『日本語上手』の内容をそのまま借用した)
食レポの比喩の例として彦摩呂さんは外せないだろう。
彦摩呂さんの巧みな比喩を、その場でwebで検索していくつか紹介した。
やってみよう①は、『日本語上手』で取り上げられていたもの。
この活動で面白いのは、オノマトペでも多くの人が共有できるものと、共有できないもの(イメージしづらいもの)があるということ。「自分ならではの味覚」を共有してもらうために表現するのは難しい!ということに気づきはじめた。
そして最後の課題はこれ。

こんな感じで、自分の好きな食べ物、最近食べた美味しかった料理の批評文(食レポ)を400字で表現する課題を提示した。

生徒の作品は次の通り。
なかなか気合いを入れて書いてくれた。これだけノリノリに表現できれば、もう「批評」と呼んでも差し支えないのではないだろうか。いや、批評じゃないなあ、なんだこれ?

らぽっぽのアップルパイ
らぽっぽのアップルパイ。それはアップルパイといえどもリンゴに加えて薩摩芋も入っている。まず箱を開けたときのおいしそうなにおい。そしてシンプルな見た目。口に入れるとシットリとした薩摩芋と歯ごたえのあるリンゴ。それにさくさくのパイの味が感じられる。こんなにしっとりとした満足感のあるパイは他にはないだろう。薩摩芋はほどよい甘さで、量が多いので少しずつ食べることに意味がある。リンゴは柔らかく、砂糖はあまり使われていないので、素材そのものの味を楽しめる。その二つの下で支えているパイの生地は薄く、まるでしっかりとした畳が敷かれているようだ。この三つの素敵な要素があるからこそ、このアップルパイが成り立っている。
今日もあの、おいしそうな、甘いにおいに誘われて思わず立ち寄ってしまうかもしれない。らぽっぽに。

梅干し
見た目はシンプルなシルエット。しかし、よく見ると少しシワシワしていて、ここまで来るのにどれだけの苦労があったのかと物語っている。情熱的な太陽のような赤さを一目見るとよだれが出てくる。
一口、口の中に放り込むと深い世界が広がってくる。それと同時に酸味が口の中に広がる。思わず顔をしかめたくなるような酸っぱさだ。しかし、その酸っぱさがたまらなく美味しい。そこらへんに売っているものよりも酸っぱい。彼らにかけられた苦労が他のものとは違うからだ。おばあちゃんが腰を曲げながら一階から四階の屋上まで登って干している。そんな様子が浮かんでくる。口の中でつるつるした皮がめくれると柔らかい実が出てくる。今までの酸っぱさとは一変し、あたたかくわたしを受け入れるようだ。舌に触れただけで実はとろける。最後に口の中には種だけ残る。種にも味がついている。とても美味しい。他にこんな美味しい梅干しがあるんだろうか。いや、ない。

三ツ矢サイダー
僕はオアシスを求めていた。まるで、砂漠のど真ん中で、今にも干からびてしまいそうな植物のように。
すると、遠くにキラキラと太陽の光を反射させた泉が見えた。僕は走った。友のために走るメロスのように。手を伸ばすと、そこにはキンキンに冷えた天然のミネラルがあった。頭に手をかけ、反時計回りに回し、最後の障害物を取り除く。すると、僕を歓迎するかのようにシュワシュワと音を立ててはじけた。一気に流し入れると、今にも死んでいきそうだった僕の細胞が気力を取り戻し、活性化した。ほんのり甘い天然水の中に、パチパチとはじける元気な泡たちがたまらなく刺激的だ。乾ききった身体にしみこみ、うるおいを取り戻した。僕のなかでの飲料ナンバー1だ。何十年もの間、飲まれ続けた理由は、僕の身体で立証されたといえる。

クドすぎる食レポに挑戦
もう過ぎてしまった夏を思い出して欲しい。部屋の中まで入り込んでくる熱気を抑えようとクーラーをかけ、一向に減らない宿題にさじを投げたあのとき、一体何を食べただろう。冷蔵庫の扉を開けた私を迎えたのは、常磐色の表面に、その楕円形の上下を結ぶ幾本もの黒い紋様を浮かべる。大きな大きな西瓜だった。両手でやさしく抱え出したそれはずっしりと、中には隙間なく詰められた果肉の重さを伝え、そっと当てられた包丁に力が込められると、ザッという音が響き、薄暗い部屋に光を灯すようなまぶしい白。さらに刃を降ろせば、今度は奥に隠されていた深紅と珊瑚朱色が斑に顔を出しゆっくりと左右に割れた。
半球となった西瓜が透きとおるガラスの容器から飛び出すように置かれたそれは、光沢のある銀色のスプーンに刺されるのを今か今かと待ちわびているようで、一人っ子の特権のように思われる幸せな瞬間でもある。
薄く平らな凹みの縁を真っ赤な表面にあてれば、予想よりも遙かに軽い力で中に進み、その亀裂が同じ様に広がって欠片となる。浸みだした赤の果汁と一緒にすくえば、さわやかな甘い芳香がただよって口元に運ばれる。たっぷりと音を立てて砕かれ溶けるように一瞬で消えてしまう。ほどよい涼しさと蜜のような甘さだけが残ると、ついさっきのあのザラザラとした粒の集まりが恋しくなる。勢いよくすくって口に入れれば、漆黒で平べったい僅かな大きさの種が混ざっていて、ほんの少し後悔する。噛まないように咀嚼してがりっという堅さを感じてしまったときの悔しさは誰かに伝えたくなってしまう。
誰もいないリビングで一人黙々とスプーンと口を動かし続ければ、永遠に続くように思われた掘削の時間も、うっすら見えだした白の皮が露になることで冒険が終わってしまったと空虚な気分になる。