2013/05/28

文学の感想交流の話し合いは難しい

今日の実習生の文学の授業はとても感銘を受けた。
重松清「タオル」を、4つのキーワードで読み解く実践だった。

まず、次のキーワードに関する課題の中から一つ選ぶ。
・「涙」…流せなかった涙が流せたのはなぜだろう?
・「居場所」…少年がついに見つけた居場所とはどこだろう?
・「タオル」…少年にとってタオルとはどんな役割を果たしているだろう?
・「磯のにおい」…磯のにおいが少年に気づかせてくれたこととは何だろう?

そして、その課題に沿ってカギとなる描写を探す。

最後に、3つ以上、根拠となる描写を取り上げつつ、自分の考えを文章で表現する。

そういう学習であった。
本時の展開は、今まで個人でまとめていた考えを話し合って交流するという位置づけだった。

この授業では、設定した課題の切り口がなかなか鋭いのがよかった。さらには、引用をさせつつ考えを主張させるという手堅い方法で、どの生徒も叙述を根拠に読みを深める学習になっていた。
惜しい点が、「本時の展開」の感想交流だ。
事前の入念な指導でどの生徒もA4でびっしりと自分の考えを文章化している。
それを持ち寄って、次のように「話し合い」をしようという展開だった。

感想交流の方法
・同じキーワードを選択した生徒4人でグループとなる。
・他の人の課題を黙読しする。
・なるほどと思ったところ、自分と異なる解釈をした人に聞いてみたいことを話題にして話し合う。
という流れだった。

しかし、せっかくいい考えを文章にまとめていたんだけど、いざ「話し合いましょう」といっても、ほとんどの生徒が何を話したらいいかとまどってしまい、黙ってしまったのだ。

なぜ話し合いが停滞したのだろうか?
この原因として考えられるものは、
・何のために「話し合い」をしているのか明確ではなかった。「ふーん。それで?」という感じだった。
・情報量が多いので、読み合うだけで精一杯。どこから発言していいかわからなかった。
のようだった。

どうすれば良かったのだろうか?
まず、話し合いのねらいを絞り、ゴールを明確にすべきだったと思う。
たとえば、
・気になった表現とその理由をどんどん紹介し合う、とか
・自分と解釈が分かれる(共通する)描写を指摘し合おう。や、
・他の人と解釈が分かれたものが、どんな理由から起きているのか吟味しあおう。
などと、ねらいを焦点化させるべきだっただろう。

そして、話し言葉による交流のあり方にも問題があったと思う。
話し言葉は、あくまで話し言葉によって勝負すべきだ。
今回の授業では、話し言葉による交流と言うよりは、どちらかと言えば「読み合う」タイプの交流であった。ワークシートに書き出された情報量がかなり多かったので、それを黙って読むだけで終始していた。
でも、黙って読み合うのが悪いわけではない。書き言葉による交流であれば、他の人が書いた文章に、直接自分の感想や意見などを書き込み交流をする「書き合う交流」だってある。
話し言葉による交流(話し合い)をするのであれば、いっそのこと、今まで書いていた文章を一切見させずに、ノーガードで話し合いをさせたってよい。
教科書の本文を指さしながら、あるいは引用した本文をカードに書いたり、キーワードを提示しながら、語らせるという方法だってある。それだけの思いや考えは事前に十分練られていたはずであるからだ。

さらには、話し合う「切り口」を提示できれば良かったかもしれない。
質問の話形や感想の話形などを例示するのだ。
・「そうそう、僕もそこを考えていました」
・「お言葉ですが、そこについての考えは、ちょっと違います」
・「その言葉以外に、○ページの○行目には……」
・「○ページの言葉には気づきませんでした」
などなど、話し合いを絡めていく切り口を例示するのだ。
そうすれば、「どうやって話し合っていけばわからない」という生徒に対してヒントとなるかもしれない。

もっとも、文学の感想交流の話し合いそのものは難しい。
感想は「個」で持つもの。その「個」の読みを壊さずに、なおかつ引き出しあう交流はとても難しいと実感している。
たとえば、文学の感想交流の話し合いで「班で意見をまとめましょう」という指示がある。
私は、グループで感想をまとめるという話し合いにはかなり違和感を持っている。不快感と言っても良い。
感じることも、気づくことも、考えることも、つまり、学ぶことは、結局はたった一人で行われることだと思う。そのプロセスで多くの人が関わっていたとしても。
他の人と意見を「まとめる」必要が、個人にとってそれほど必要でないとするならば、「まとめる」ことにどのような意味があるのだろうかとさえ思う。

私は、話し合いを行うとき「班で意見をまとめよう」という指示は、文化祭の出し物や校外学習の行き先を決定することなどの必要に迫られるもの以外は、ほとんどしていない。
他人と意見をそう簡単に合わせたり、まとめられるものではないと思っているからだ。
「まとめる」ことをしたとたんに、少数意見や他と変わったユニークな意見が封殺されるということはないだろうか? 
そして文学の読み取りなどでは何より「少数意見や他と変わったユニークな意見」があるからこそ、鑑賞が深まるという面もあるのだ。

「個の読み」を広げたり深めたりして強化するための「交流」という位置づけが、私には一番しっくりとくる。
そのために、感想交流の学習では、まず「個」で自分の感想や意見を「書いて」まとめておき、それから「交流」を通して読みを広げたり深めたりし、最後にふたたび「個」に戻り、交流を通して得たものをふりかえらせるようにしている。