2015/11/01

辞書の語釈について考える授業は何を提起していたのか

参観した授業から授業考えたこと。
授業の構成自体はまだまだ練り上げる要素は多いけど、提起している問題はなかなか興味ぶかい。

◆授業のおもな内容
1 身近な言葉の語釈を考えてみる
「旅」とか「友だち」とか「思い出」など。
「あなたの言葉を辞書に載せよう」という大辞泉のサイトがある

2、辞書の言葉について考える
大辞泉や三省堂国語辞典では、読者参加型の辞書づくりに編集をシフトさせていっているそうだ。
その試みのおもしろさや意義について考える。

◆この授業が提起しているもの
1、「辞書上の意味」を考えさせようとした
学習指導要領の指導事項には「辞書上の意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨くこと」という文言がある。これはほとんどの場合、小説などを読んだときに出会った見知らぬ言葉を辞書で調べ、辞書上の意味を文脈に沿って書き換えていくという学習が行われる。
しかし、今回の授業は何かの文脈が先にあるのではなく、まず「辞書上の意味」そのものを考えさせようとしたところに特徴があり、提案性があるのだ。
「辞書上の意味」ってどうやって書くべきなんだろう、そもそもなんのためにあるんだろうか。
言葉の意味は、そもそも文脈から離れてはあり得ない。Aくんの感じる「かわいい」とBさんがつぶやく「かわいい」の意味は同じではない。しかし、いくつかの「かわいい」の文脈を集めていくとそこにおぼろげながら「かわいい」の「辞書上の意味」が浮かび上がってくる。どんな文脈でも「この意味として使われているとは言えそうだな」という「語釈」がにじみ出てくる。(言語学では「ラング」「パロール」というらしいことを大学のときに習ったけど、「パロール」から「ラング」を取り出していく作業だと思っていいのか?)

2、言葉の意味のフローとストック
といいながら、「辞書上の意味」が書かれている「辞書」そのものも大きくかわりつつある。大辞泉などの辞書では、インターネットによって、自由に語釈を書き込んで読者を参加させ、辞書の語釈をを豊かにしていこうという取り組みを進めているのだ。まるで掲示板のような辞書。
初めから「ラング」が決まっているものとしてトップダウンに読者にあたえるのではなく、ボトムアップに作り上げていく試み。しかも辞書の編集者だけでなく、様々な「文脈」を持つ一読者もそれに関わることができる。
「文脈を持つ言葉」はTwitterの「つぶやき」のようにあっという間に消えていき、移り変わっていく「フロー(流動的)」の言葉だ。しかし辞書は「ストック(不変・不易)」を志向する。言葉の意味のフローとストックのせめぎ合いを、具体的な辞書の編集のプロセスを知ることで、学習者は目の当たりにすることになる。
そういう観点で、言葉の意味のフローとストックを考える機会にすることができる。

3、編集の参加性と権威性
そもそも、読者は辞書に何を求めているのだろうか?
それをひと言で言うと「辞書に載っている正しい意味」という安心感、信頼なのではないか。もっというと「辞書の権威」にすがっているのではないか。
「辞書に載っている」といえば、その語釈は規範となり、正しいものとして安心して許容することができる。しかし「隣のA君が言っていたよ」というのでは当てにならない。
辞書は「権威性」の高いメディアなのだ。
しかし、最近は百科事典の世界ではご存じのようにWikipediaによってだれでも百科事典作りに参加できるようになった。
誰でも書き込めるという「参加性」が高まると「権威性」は薄まる。
国語学者でしか書けないという「参加性」が低くなると「権威性」は高まる。
もし辞書が「参加性」を高めた場合、「権威性」はどうやって担保していくのか、どうすれば信頼できる語釈になるのか、それこそが辞書の編集ポリシーが問われることになる。
そういう観点で、編集の権威性、参加性を考えさせてもよかった。

4、実は「編集方針」を考えていたのだ
授業のなかで最も欠けていた何か?
それは「辞書を読む読者」の存在だ。
世の中にはさまざまな辞書が作られている。
これは裏を返せば、それだけ多様な読者のニーズがあると言うことなのだ。
たとえば、「日本国語大辞典」や「広辞苑」のようなごっつい辞書を使いたい時もいれば、「新明解国語辞典」のほうが必要なときだってある。誰にとっても「日国」が必要なのではなく「日国」が必要な時があり、それを必要とする読者がいるから、マーケットが成立しているのだ。
だから、「こういう読者のニーズがあるからこういう辞書が必要だ」、「こういう辞書があればこういうニーズを満たす」、「この語釈は誰々向きだ」、という議論ができればさらに深まりがあったのではないかと思う。
「自分のお気に入りの語釈」を考えることは楽しい活動だし、言葉の感性を磨くためには有効には違いないんだけど、もっと「辞書」というメディアの「編集」に目を向けさせる、作り手と読み手との「あいだ」に存在する「辞書」の微妙な立ち位置のようなものをもっと考えさせてもよかったのではないだろうか。
そしてこのことについて考えさせることは、いうまでもなく「辞書」だけでなく、全てのメディアの成り立ちを考えさせるときにも有効な「汎用的な資質能力」の一つとなっていくのではないか。