というよりも、これは嫌悪感のほうが強い。
そういうことは、ある意味現実なのかもしれあい。
だけれども、こういう言葉を平気で、他者に向けて言える人の神経を疑う。
あなたは、言ったことの内容よりも、言っている「人」で判断するんですね。
どんないい言葉も、つまらない人間が言ったらダメと言うことなんでしょうか?
偉い人間が言ったことは、どんなにくだらない言葉もありがたがるんですね。
で、結局、つまらない私なんかの「ことば」を「ことば」として受け止めてくれるのでしょうか?
でも、私が本当に問題にしたいのは、「ことば」でも「人」でもなく「場」である。
「何を言ったかよりも誰が言ったかよりも、どんな『場』で発せられたか」が大切なのではないか。
発せられる言葉は、それを受け止める相手がいることはもちろんだけども、どんな「場」(時間、空間、人間関係などの状況)で発せられたかということが決定的に重要なのではないか。
「偉い人のすばらしい名言」が、それだけではほとんど意味がなく「ことばが一人歩き」してしまい、まるで「居酒屋のトイレに貼ってある親父の小言」のようにむなしく響くさまを日々目にしてしまうのは、その言葉にぴったりの「場」ではないからだ。「場違い」だからだ。
反対に、言葉としては取るに足らないようなものでも、「場」にとってかけがえのない言葉であれば、それはその場にいた人にとっての「名言」となる。そういうことばは「誰が」言ったかなんて問題じゃない。「なんという言葉か」と言うことさえ意味を持たないかもしれない。
「場」によって、言葉は光を放つ。
考えるべきは、人と人とが生み出す出来事の「場」ではないか。
中学生は言葉遣いもいいかげんで、授業では発言をしないんですよ……
たしかにそういうことはあるかもしれない。教室という「場」では。
しかし、中学生だって、言葉を発したくなる「場」に立つと、言葉も輝きを増す。
たとえば、職場体験や、地域との交流をすると、普段の生活では考えられない「ことば」が中学生から飛び出してきて驚く。
教室では粗雑な言葉を吐いて先生を困らせているような生徒も、一対一の空間で、心を開いてじっくりと話を聞いてみると、全く違った「ことば」が彼らから聞くことができる。
「場」がそのような力を、「ことば」を引き出したのだ。
書き言葉と話し言葉の違い
書き言葉と話し言葉の違いはいろいろとあるけれども、ここでもやはり「場」が決定的に違うのだという結論に至る。
書き言葉の「場」はある程度緩やかだ。そして書いたものが「場」を超えて飛び交うことも可能になる。(時間や空間など)
その反対に、話し言葉は「場」(時間や空間、聴き手の存在など)に強く規定される。
話しやすい「場」というのは確かにある。話しにくい「場」というのもある。
それはきっと個人の能力を超えた「関係の磁場」のようなものである。
書き言葉のたとえで言うと、ペンを取って紙に書く場合、書きやすい紙と書きにくい紙とがある。つるつるしすぎず、適度にペン先が引っかかってインクの発色がいい紙は書きやすい。反対に、つるつるしすぎたり、紙が波打っていたり、水に濡れてぐちゃぐちゃだったりすると、どんなに書きたい「ことば」があったって書けない。
書き言葉だって、話し言葉だって「紙」の存在は決定的に重要だ。
話し言葉の場合、その「紙」=「場」の存在は目に見えにくいし、自覚することもむずかしい。物質的な「紙」とちがって、時間的、空間的、心理的な距離などの様々な要因が複雑に絡み合う。
個人の力よりも場の力
そろそろ、個人の力よりも関係の力、そして場の力と言い切ってしまっていいのではないか。
学校という「場」。「クリエイティブな関係性が現出する場」とはいったいどのようなものなのかを考えていくべきではないのか。
齋藤孝の「天才がどんどん生まれてくる組織」は、そのような「場」の力について取り上げた文献だ。
齋藤は、数々の突出した才能を、個の力に還元するのではなく関係の力、組織、場の力として論じている。
彼が取り上げた組織とはつぎのものである。
目次将棋の奨励会、宝塚音楽学校、手塚治虫のトキワ荘、そして最近何かと話題の理研など、おなじみの組織も取り上げられている。
第1講 猿飛佐助は個性を超える
第2講 ヨハン・クライフとカルロス・ゴーン
第3講 世界的音楽家を輩出した齋藤メソッド
第4講 奨励会というスーパー教育システム
第5講 サッカー選手養成組織 清水FC
第6講 宝塚音楽学校の密封錬金術
第7講 藩校の教育力
第8講 スター誕生!
第9講 漫画家の青春溶鉱炉
第10講 週刊マンガ誌という怪物
最終講義 「なにを研究してもいい」理研を育てた太っ腹キャラ
言うまでもないことだが、個の力は関係の力、場の力によって大きな影響を受ける。(状況に埋め込まれた学習)
場はスタイル(関係の様式)を引き出す
今年の夏も、様々な場所に訪れてさまざまな話を伺うことができたが、そこでも痛感したのは場の力であった。
音楽でたとえると、同じベートーベンや、モーツァルトの作品を演奏するにしても、ドイツの指揮者と、フランス、そしてロシアやラテン系の指揮者ではなんとなくスタイルが違う。
俯瞰して比較すると、個人の力よりも場の力が大きな影響を与えていることがわかる。
私が私であるのも、彼らが彼らであるのも、場の力に半分以上負っている。
普段はそれがほとんど無自覚だけども、いつもの場を離れ、様々な場の方々にお会いするとそれを強く感じる。
だから、場を考えること抜きに、コミュニケーション教育を考えることはほとんど意味を持たない。
どのような場が人を育てるのか、言葉を育てるのか。コミュニケーション教育では、その核心をこそ考えるべきなのではないか。
「場」を「環境」といってしまうとざっくりしすぎて見えにくくなる。もっとその「細部」を取り出し、くっきりとした「構造」を描き出すことはできないだろうか。
相手意識より公共意識
話す聞く指導では「相手意識」が必要とよく言われる。
しかし、まずはその常識を疑ってみたらどうか?
むしろ目の前の相手に顧慮し過ぎて、遠慮しちゃって萎縮することの方が多くないか?
たとえば、どんな場でも自己をガンガン主張する欧米人は、相手意識というものを持っているのか?
そもそも相手意識という概念があるか?
むしろ「場」に対する応答責任、公共意識という面が強いのかもしれない。
コミュニケーションを、「相手に対するもの」という、個対個のやりとりに矮小化するのではなく、人と人とが出会う「出来事の場」、「分かち合う場」への参加意識、公共意識と捉えることはできないのか?
(日本人にとって「公共」という言葉ほどしっくりこないものはないけど)
公共意識の本質は「責任」Responsibility(レスポンスする・能力)
応答能力が、公共への責任。場への参加意識。
たとえば、学校の「いじめ問題」には、解明するためのさまざまな切り口が考えられるが、日本の、学校の「場」という視点、コミュニケーション、公共意識から考えることもできるかもしれない、
下記の文献『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』はそういう視点から書かれた本である。
「いじめ」の問題は、誰が言ったか、何を言ったか、という問題よりも「どんな場(時間、空間、人間関係=コミュニティー)で発せられたか(発しなかったか)」ということが最も鮮烈に問題化される状況である。
また、新たな「場」としてのサイバー空間、SNSなどの不特定多数の匿名空間の問題についてもこれからは考えていかなければならない問題だろう。
参考)それについて論じた過去の記事
書く生活はどう変化したか? どう変化するか?
相手意識と自分意識