実践を人に伝えるのは難しい。
どうしても、「これがいいんだよ」「これ、大事!」という「結論」を性急に押しつけるスタイルになってしまう。
でも、その結論に至ったプロセスとか、そう結論づけたそもそもの前提が共有されないことには、「へー、すごいね、で?」と言われて終わり、ということになりかねない。
実践研究のスタイルは、科学実験のような「仮説検証」タイプがよくある。。
こういう見込みで、こんな仮説を立てて実践をしてみました。
そしたら、ほら、ご覧の通り、見込み通りの結果になったんですよ。どうですか?
というスタイルだ。
この「仮説検証」タイプの実践研究は結構難しい。
・そんな仮説、いまさら言うまでもない、当たり前なものじゃないか!
・検証の方法がそれで本当に適しているのか?
などという眼で、研究を検討されるようになる。
この辺を上手にクリアしないと、予定調和的な、ありきたりなうさんくさい研究になってしまう。
そしてほとんど現場ではほとんど説得力を持つものとならない。
「実践研究なんて所詮役に立たないもの」という絶望的な認識に至る。
実践研究は、実践のリアルさをそのまんますくい上げるようなものにしていきたい。
普段、私たちが実践をするときにはかっちりとした「仮説」なんて立てるだろうか?
「理論」を胸に授業をデザインするだろうか?
もっと直感的な「何か」とか、胸を突き動かされる「何か」に向かって授業を作り上げていくのが普通ではないか。(そんな直感さえ、あらためて考えないと意識には上がらないかもしれない)
だから、そんな場合は「見えてきた」型研究が、妥当だと思うのだ。
「見えてきた」研究とは、とりあえず、いろいろとあれやこれや実践をしてみて、新たに「見えてきた」景色、「見えてきた」世界、「見えてきた」深みを描くという方法だ。
経験によって、同じことをしていても「見えてくる」世界は違ってくることは多い。
そして、おそらくその世界はより複雑で、よりとりとめも無く、より混沌としているもののはずである。
そういう「豊かさ」を言葉にし、意味を見いだしていくことを目的とするのだ。
「豊かさ」を共有すること。「見えてきた」世界を共同注視すること。
それが、より広い、より深い「世界」へと歩みを進めることになるのではないかと思う。
うーん、最後が抽象的になりすぎてしまった……
もうちょっと自分の頭の中では具体的な方法論になっているはずなんだけどなあ……