2013/09/10

「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。

ある「読むこと」の学習指導案検討で感じたこと
今日は市内の国語科の先生方が集まって研修会が行われた。
10月に行われる研究授業の指導案の検討である。
今回の研究授業は、説明文の「詠むこと」の学習と言うことだ。
単元名は「必要な情報をまとめよう~暮らしと自然のつながりについて~」中1の授業である。
以下詳細。読むのは面倒な人は飛ばしてください。

単元の概要 
単元の目標
・関心意欲態度
他者の意見を参考にしながら、自分なりの表現を工夫しようとする。
・読むこと
目的に合った情報を集め、必要に応じた情報を読み取ることができる。
・伝統的な言語文化と言語の特質に関する事項
聞き手に分かりやすく説明するために語句を選び、表現を豊かにすることができる。

単元の指導計画
1時
教科書本文を通読し、感想を述べる。
2時
本文の構成を考え、内容の理解に役立てる。
本文を大きく二つにわけ、各段落に小見出しをつける。
3~6時
「自分たちの暮らしと自然とのつながり」について調べたいテーマを決定する。
決定したテーマについて本やインターネットを活用し情報を集める。
集めた情報をまとめ、構成や図表の書き方を考える。
7時(本時)
テーマに沿ってまとめた原稿をグループで読み合い、アドバイスや改善点を記入し、評価し合う。
話し合ってで高い全店やアドバイスを参考にし、まとめた原稿を清書する。
8時
自分の決めたテーマについて各自発表する。

この指導案を読んで何を感じたかというと、「読むこと」の指導はつくづく難しいなあと言うことだ。
「読むこと」は目には見えない。だから、力がついているかどうかはなかなか分からない。
そのため、さまざまな、書いたり、話したりという言語活動を通して読む力を高める授業が行われるのが一般的だ。(要約したり、レポートにまとめたり、教師の発問の答えたり)
特に、研究授業ともなれば、教師の一方的な発問やワークシートに読み取ったことを答えていくような授業はなかなか許されないだろうから、上記の指導案のように、レポートのようなものを書かせて、主体的な姿を見せて、「読むこと」を指導した「こと」にしてしまう。

上記の指導案にはいろいろな問題がある。
まず、問題点の一つ目は、教科書を「読む」活動と、レポートを「書く」活動がほとんど関連していないと言うことだ。
はっきり言って、最初の2時間をやらなくても授業として成立する。
さらに言えば、後半のレポートを書く学習を通して、教科書本文の読み込みが深くなるわけでもなさそうだ。つまり前半の内容を「読むこと」として生かされていない単元である。
「読むこと」の学習を何とか苦し紛れに研究授業にしようとでっちあげた魂胆が透けて見えてしまうのだ。
いっそのこと2時までで切り上げてシンプルな「読むこと」の授業にしてしまうか、3時以降から授業をしてレポートを「書くこと」の授業にしてしまった方がよっぽどましだ。

問題点の二つ目は、上記の指導案からは、どのような「読む力」が高まっているのか分からないという点だ。
この授業のどの場面で、どんな「読む力」が育っているのだろうか。その「読む能力」の押さえが、この展開からは分からない。読ませっぱなしの授業になってしまう危険性が感じられるのだ。

広がる「読む力」
そもそも「読む力」にはどのようなものがあるのだろうか。
自分が学習者として子ども時代教わってきた「読む力」とは、
・書かれていることを正確に理解すること であった。
また、文学的文章などでは、
・書いてあることをもとに想像すること も、読む力として育てられてきた。
この「文章理解としての読み取り力」が従来より「読解力」とされ、大切に指導されてきた。入試で問われる問題はこの種の読解力である。これは。だれも異論がないだろう。
この従来型の読む力は、今度とも「読むこと」のなかで大切にされなければいけない力であることは言うまでもないことだ。
しかし、「PISA型読解力」という新たな〈もはや古い?)「読解力」が登場し、従来の「読解力」に加えた要素も「読むこと」として指導されるようになってきた。
つまり、
・情報を正確に取り出して理解するだけではなく、
・情報をもとに、自分の頭で考えて、さまざまな文脈から解釈したり
・さらに、その情報をもとにして自分の考えを豊かにしていったり、
・自分の目的達成や、その表現のために、情報を活用するような読み方
も読む力として求められるようになってきたのである。
いわば、受動的な「読まされている」状態から、主体的に読んで,情報を生かすことへの転換である。
さらには、探求的学習やメディアリテラシーの視点から「情報活用としての読む力」も要請されるようになってきた。
自分の考えを構築するための「調べるスキル」も読むことの重要な指導内容である。
さらにさらに言えば、読書生活を豊かにするという視点での読書指導も、広義の「読む力」に入ることだろう。選書やレビューを読む力などである。

「読む」という言葉を使わないと……
何が言いたいかというと,「読む力」とひと言で言っても、上記のようにありとあらゆることが「読む力」として取り上げることができてしまうので、いっそのこと「読む」という言葉をなるべく使わないようにしたらどうかということなのだ。
「読む」という言葉を使わないで、よりぴったりした別の言葉に言い換えた方が、もっと「読むこと」の能力が具体化され、実効性のあるものとなるのではないかと言うことなのだ。

「読む」「調べる」のような曖昧な言葉をいったん封印して、より具体的な表現に言い換えてみる。
たとえば、次のように言い換えてみたらどうだろうか。

教科書本文を読む
→教科書の文章の大まかを理解し、文章からさらに調べたいことを書き出す。

本やインターネットを活用し、情報を集める
→これには、次のような学習活動、情報探索と活用の行動が含まれる。
テーマを決める、
テーマについてどんな情報が必要か考える
どんな情報収集手段(インターネット、図書館など)があるか検討する
情報収集手段に応じて、どんな情報が集められそうか見通しを立てる。
本の背表紙やインターネットのタイトルを見て、目的にかなった情報かどうか判断する。
調べる目的に沿って、情報を取り出す箇所を決める。
適切な量の情報を取り出し、出典などを明記してカードに書き出す。
集まったカードをもとに、レポートの構成を組み立てる。
集まった情報を適切に引用しつつレポートを書く。
レポートを書いたものをもとに、情報が適切に活用されているかどうかお互いに評価し合う。

上記にはどこにも「読む」とい言葉は使われていない。
しかしそのどれもが「読む力」につながる活動となっている。
「読む」「調べる」と、安易にひと言で言ってしまうから、焦点が曖昧になり、教師も視点がぼけ、読ませただけ、書かせただけの活動になってしまう。
この指導案の授業でいえば「読むこと」は、情報活用のプロセスを取り上げている。
だから、情報活用のプロセス一つ一つが「読む力」につながっていくのである。
たとえば、「情報収集手段を検討する」という学習も、(何も読んではいないけれど)、重要な「読む」(情報活用の)プロセスに位置づけられる学習内容なのである。

もちろん、「読む」という言葉を使うな、ということは説明文の学習だけにとどまらない。
文学でも、詩歌でも、なんでも全く同じだ。
※たとえば、以前、本ブログで短歌を「読む」ことについては以下のように分析している。

短歌の理解レベル(言葉として書かれていることを理解する)
1、短歌の意味の区切りを意識して音読できる
2、言葉の意味がわかる
3、文脈がとらえられる
4、短歌の言葉の韻律が味わえる
5、短歌の修辞の効果や約束事がわかる
6、その短歌が踏まえている歴史や伝統がわかる
短歌の想像レベル(言葉で書かれていない短歌の世界を想像する)
7、短歌がえがいている世界が理解できる
8、短歌がえがいている世界がイメージでき、さらにそれから発展してストーリーが想像できる
短歌の批評レベル(短歌の美醜などを判断できる)
9、(他の短歌などと比較して)この歌の価値を説明できる

「短歌を読みとる」とひと言で言ってしまうのではなく、「短歌の区切りが分かる」のように、具体的に「読む行為」を分析をするからこそ、学習が焦点化されるのだ。

「読む」学習の中に、生徒のどのような「読む行為」が含まれているのか、どんな「読む能力」や「情報活用能力」が含まれているのか、それを一つ一つ検討していくことは,目に見えにくい「読む力」を取り出して指導するためには不可欠な視点だと思う。
「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。
「読むこと」の学習をデザインする際には、この学習活動では「読む」ことを、どんな言い換えができるか考えてみるといいと思う。