2013/09/29

SNS上での「批判」をどう考えるか

SNSで加速する「批判」のコミュニケーション
TwitterもFacebookも、便利で楽しい自己表現のツールだ。
私もずいぶんお世話になっている。
これらのSNSは、ツールによって拡張されたコミュニティーでのコミュニケーションである。人と人との言葉のやりとりであるという本質は変わらない。
しかし、メッセージの受け手の顔や気持ちが分かりづらいため、ときおりトラブルが起きることもある。
面と向かってのやりとりよりもはるかに本音が出やすいので、SNS上での批判の応酬はときにかなり辛辣にエスカレートし、傷つけあってしまうこともある。
かつてだったら、情報を発信できるのはマスコミなど一部の力のあるメディアだけだったのだが、SNSの登場により、誰でも、全世界に向けて好き放題に発信できるようになった。まるで、ゲリラ犯が核兵器を持っているようなもので、普段は隠している悪意やルサンチマンが噴出する可能性だってある。
SNS上で交わしあってしまう「批判」をどう考えればいいのだろうか

「批判」を言いたくなった場合は?
建設的な批判と不毛な批判の違いを弁別すべし。
自己の正当化のために、他者への批判するなら、それは不毛な愚痴となる。
その批判が自己にも向けられている場合は建設的な批判になりうる。
批判は自己破壊、自己更新につながる意思がある時にのみ有効だ。
自己批判をともなう厳しさを持っているか省察すべし。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。」ということだ。

「批判」を受けた場合は?
体力が弱っているときは……
・スルーする
・人は人、わたしはわたしだと思う。
・それで?だから? とつっぱる。

体力がみなぎっているときは……
・反論する
・その人のスタンスを理解する
・なるほど、そういう見方もアリだな、とこっそり同意する
・自分のいたらなさをリフレクションするチャンスととらえる

自分にとってプラスにしていく貪欲さが必要だ。
それができないのならば、沈黙するのが得策だ。

「批判」について、陰山英男さんのTwitterでの発言にはっとさせられた。
以下引用する。。
自由にいろいろな教育をやろうという声は聞こえ、また実行されているが、答えは見えず、変わらない現状への批判ばかり。批判から提起される改革って、私から見れば危ないものが多い。 
なぜそうなるか。実は理由は意外にシンプルだと思う。それは自己の正当化のために批判や愚痴を大量生産してしまうから。「批判や愚痴は言わない。子どもを伸ばす。」人の批判ばかりやっていると何も達成されてないのに何かやれたという錯覚に陥る。でもやがてそのマイナスは倍返しで自分に帰ってくる 
一方、事実は事実に即して動く。大切なのは、みんなの願いを小さくても実現することだ。その知恵はやがて大きなものを生み出す原動力になるはず。その点で、批判はしないが、やたら意見ばかり言わせたり、ディベートなる批判ごっこに力を入れる必要はないと思っている。日本人には似合わない。 
人を批判することは自分が正しいということを前提とする。正しいものは変わってはいけない。つまり、批判する人は変われない。つまり発展しない。
山口小学校はそんな原理で動いていた。そろそろ、現場に帰りたくなった。
もとより、現状を変えようとしている人、新しい提案をしようとしている人は、現状を変えようともせず、新しい提案をしようともしない人から、有形無形の批判にされされるリスクが高いものだ。
それをどのように克服、超克していくか、「批判」の作法を意識するのは必要な心構えだと思う。
あ、もちろん、自分自身が現状を変えようとしているのか、新しい提案をしようとしているのかという自己批判ができていることが前提ですが。