2013/09/09

今の子供たちが理想と感じている社会が、いつかは現実になる。

私の父の世代(団塊の世代ね)は、東京オリンピック、1960年代、まさに青春の真っ盛りであった。オリンピックと聞けば、脳裏には高度成長時代のサクセスストーリーが即座によみがえってくるらしい。
新幹線
高速道路
三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)に代表される消費文化
などなど。
しかし、そんな成長神話など、もはや日本のどこにもない。
それどころか、震災、原発問題や少子高齢化問題、出口のない不況など、あらゆる分野が不透明であり、不確実なことだけは確実なところだ。
昭和東京オリンピックのような「勝ちパターン」を追い求める限り、日本の実情や世界の情勢とますます乖離した、まるで日テレの24時間テレビのような、うそうそしい空騒ぎになってしまうことだろう。

正直に言えば、私自身はオリンピックそのものには、それほどの思い入れはない。(もっと本音を言えば、5回連続立候補していたイスタンブールをちょっと応援さえしていた)
……そもそも、オリンピックというシステムそのものにも言いたいことはある。
子供の頃、疑問に思ったことがある。
それは、世界最速のリレー記録を計りたいのに、なぜチームが国単位なのか?ということだ。
一番早いアスリート同士でチームを作って、計ればいいじゃん!
と感じたのだ。
後にわかったことだけど、近代オリンピックの発祥は「国民国家」の成立と軌を一にしている。
だからこそ、「国家」間の戦争やいざこざがが一番激しい時代に、オリンピックが一番栄えているのだ。(だから、「国家」というくくりが難しい地域は別チームで出たりすることもある)
いつか、「国家」という枠組みそのものが問い直される時代が来たら、オリンピックそのものが消滅するか、また新たな形に変容することだろう。

…閑話休題…

オリンピックの是非はともかくとして、東京にオリンピックが招致され、2020年というゴールが設定されたことそのものは、日本にとって少なからぬインパクトとが与えられたことと思うし、これを一つのチャンスにして欲しいと思っている。

7年後、どのような世の中になっているだろうか。
今、私が目の前で教えている子供たちは、2020年には20歳、成人を迎える。
ということは、まさに、今教えている子供たちが理想と感じている社会が、七年後には日本の理想としてとらえられているということになる。

子供たちに、2020年、7年後をイメージしてもらった。
そうしたら、彼ら彼女らの多くが、将来、ボランティアをしてオリンピックに参加してみたいと言っていた。
また、多くの子供たちが、福島をはじめとする被災地を案じ、被災地のために何か力になりたいとも言っていた。
ほとんどの子供たちは、新幹線や、テレビや、高速道路を望んでいないことだけは確かだ。

私は、これから「7年後」に向けて、社会を生きるためには、さまざまな分野で、3つの条件が必要であると考えている。
・参加するということ(全員が傍観者にならず、コミットすると言うこと)
・つながりあうということ(ネットワークを広げて、世界を拡大していくと言うこと)
・分かち合うということ(コミュニティーの中で互いに生かされると言うこと)
そしてその3つの条件の前提となるのが、
・「個」が大切にされ、違いを認め合うこと
であると考えている。

オリンピックという舞台、それに向けて進む日本という社会が、その3つを生かすものであって欲しいなあと夢想している。