この授業って道徳じゃないですか?
文学作品の感想を交流する授業などをしたあとに、決まって言われる批判的なコメントの一つが、「この授業って道徳みたいですね」という言葉だ。
べつに道徳教育を否定するわけではないが、国語教師としてなんとなく「道徳ですね」と言われるとかちんとくる。(べつに「道徳」という言葉を、社会でも、理科でも学活でも何に置き換えてもいいんだけど)
では、「道徳ではなく国語の学習です!」と胸を張って言うためには、何が必要なのだろうか。
道徳の目的は道徳的な心情を養うこと、国語の目的は言葉の力を高めることにある。
道徳も、国語も、意見を交流するという全く同じ活動をしていても、両者のねらいは全く異なる。
その違いを意識して指導しているかどうかがポイントなのだ。
意見を持つとか意見を交流するいうのは、国語科の場合、それだけではほとんど意味をなさない。
「意見を持つ」ことば目的ならば、どんな人だって何らかの意見は持っているではないか。
「メロスはかっこいい」
「メロスは勇者だ」
「メロスの性格は矛盾している」
どんな感想だって、立派な意見だ。
問題は、意見を持つことや、それを交流し合うことではない。
その意見を持つに至った、作品に対する自分の「読み」をこそ、吟味し、高めていくことが必要なのだ。
国語科の「読むこと」の指導事項の中に「自分の考えの形成」というものがある。
たとえば、
「3年 エ 文章を読んで人間,社会,自然などについて考え,自分の意見をもつこと。」
のようなものだ、
考えを持たせることは、立派な国語科の指導内容でもある。しかし、「読むこと」の学習を通して、「自分の考えを持つ」とはどういうことか、それをどのように高めていくかを問わなければ、国語科の学習にはならない。
「自分の考えを持つ」とはどういうことなのか、ということへの検討なしに、勝手な思いつきを言い合わているのならば、それは国語ではなく道徳だと言われても仕方がない。
文章を読んで自分の考えを持つとはどういうことか~感想の三層構造~
文章を読んで自分の考えを持つ(感想を持つ)ことには、実は3層の構造がある。
1、感想や意見の根拠となるテキストを取り上げる。
2、そのテキストについて、自分なりに解釈する。
3、その解釈となる「読み」を元にして、評価する。(感想・意見を持つ)
つまり、ここにこう書いてあって、それを私はこう解釈したので、こういう意見を持った。というのが、「読むこと」の学習の中で「自分の考えを持つ」ということだ。
「自分の考えを持つ」学習では、3つのプロセスの最終段階にある、自分の意見を言い合ってもほとんど意味はない。
メロスがかっこよかろうが、かっこわるかろうが、そう判断するのは、その人の主観であり、人それぞれだ。そんな意見を言い合っても、単なる感情論や価値観の違いで終わってしまう。
むしろ、意見のよってきたる根拠(テキスト)や、それをどのように自分は読んだのかという解釈段階のプロセスをこそ、吟味しなければいけない。
考えや感想は人それぞれでいい。しかし、根拠となるテキストと、それへの解釈については妥当性を検討する余地はある。解釈に対する吟味、交流こそが、「読むこと」学習の中で大切にされないといけない。
○解釈についての吟味
ここにこう書いてるのはわかったけど、それってむしろ……とも解釈できない?
ここにこう書いてあるから、確かにそうとはいえるかもしれない。だけど、こっちに……と書いてあることとは矛盾しない?
君の取り上げた根拠以外にも、……という表現から……がわかるね。
などなど。
意見の言い合いではなく、テキストに対する解釈をこそ検討する。そこに言葉の学びがあるのではないか。
「言葉に始まり、言葉に終わる」~「自分の考えを持つ」学習がうまくいっているかどうかをみる指標~
「自分の考えを持つ」ことの指導とは、実は、「文章を読んで考えを持つに至ったプロセスを問い直す」ということに他ならない。
それは、道徳の授業ではなく国語科の授業として、最低限外してはならないポイントだと思う。
「自分の考えを持つ」ことの学習がうまく進んでいるかどうか見る指標はいくつかある。
たとえば、
・一度読んだ文章を何度も何度も読み返して確かめている。
・文章中の、その言葉が選ばれた必然性を説明できる。意図や効果を説明できる。
・自分の考えを支える根拠の数が、学習を通して増えている。
・自分の解釈以外の、多様な観点による解釈を知り、比較検討ができるようになっている。
・「読むこと」の学習を通して、もやもやとなっていた自分の考えが明確になり、他者に根拠をもって説得力のある説明ができるようになっている。
・文章の評価が、ステレオタイプな単純化されたものではなはく、より複雑で重層的なものになっている。(考えが深まっている)
などなど。
国語の学習は徹頭徹尾「言葉に始まり、言葉に終わる」ものなのだ。
表現にたいする吟味のない、単なる思いつきの交流は、もはや国語の学習ではない。