2014/09/15

定跡と、型破りと。あるいは、沈黙から生まれる言葉

きっと私は饒舌な方ではない。もし、ぺらぺらしゃべっているとしたら、それはそのとき何も考えていないだけか、誰かの借り物の言葉を、イタコの口寄せよろしく、憑依して発言しているだけ。
将棋も、定跡を指しているときはすらすらと手が伸びる。しかし、定跡では太刀打ちできない状況が来たとき、型を破ろうというとき、つまり、本当に頭が働いているときには、すらすらとなんか、駒を進めることはできない。
「美は人を沈黙させる力がある」とは、小林秀雄の言葉だけど、この場合の「美」とはもちろん、ルノアールとかセザンヌのような美術作品のことだけを言っているわけではあるまい。「美」とはもっとおどろおどろしい、もっと人間の根源に迫るような、何かのパワーに圧倒されるような、意味が充満するカオスの渦におぼれそうになるときに、言葉を見失い、そして沈黙をするのだ。そのカオスの渦から、一筋の言葉を紡いでいくなかで発せられるひとことこそが、定跡外れの、自分の身体感覚と思考とを経た、カオスからコスモスを志向する言葉なのだろう。
……だから、話し合いを円滑に……なんて、ひょっとしたら、ちゃんちゃらおかしい?? そんなことよりも、安心して黙っていられる、それを聴き手が待ってくれる、ということの方がよっぽど重要な気がしてきた。
『悩む力』の「ぺてるの家」の当事者たちの、あけすけて、途方もなく語り尽くす彼らたちの存在に、私が圧倒的に心が打たれる(←というような、それこそ陳腐な言葉では表現できないほどの)を受けるのは、当事者の語りが生まれる傍らにいるはずの、「沈黙して、言葉を待ち、耳を澄ましている人たち」の存在のおかげでもある。

その反面、残念なのは、どこかで聞いたことある言葉が、人から無遠慮に発せられるのを聞くことだ。それほど、陳腐で、不誠実で、がっかりとしてしまうことはない。そういう言葉を無意識に発してしまう自分自身にも。……これは蛇足か。