2013/08/05

小林一茶の魅力

「盥(たらい)から盥へうつる ちんぷんかんぷん」
(赤ん坊のときはたらいで産湯を使い、そして死んだら、たらいで湯灌をしてもらう。人生とはそのたらいからたらいの間の「ちんぷんかん」なものだ)
一茶辞世の句という伝説が残る句である(実際は??らしい)

幼い頃に母を亡くして苦労し、若い頃は故郷を追われて苦労し、そして故郷に戻っても3人の我が子や、2人の妻に先立たれる。最晩年には村が大火に見舞われ、屋敷が類焼。最後は小さな小さな土蔵で一生を終えることになる。
(その土蔵は今でも残っている。幸いにして三人目の奥さんは、一茶の死後に子どもを授かることができた。今でも小林家の子孫がご健在だそうだ)
そんな、決して幸せは言えない一茶が、どうしてあのような、からっとした句を詠めるのだろうか。
「われと来て遊べや親のない雀」
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」
「悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな」
「大の字に寝て涼しさよ寂しさよ」
「やれ打つな蝿が手をすり足をする」
「これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺」
など。
一茶の人生と句とを重ね合わせて味わうと、そのニヒリストながらも吹っ切れたエネルギーに圧倒される。

小林一茶が書いた『父の終焉日記』は文学史上最古の「介護小説」ともいう内容だ。
病に倒れた父を懸命に介護するも、絶命し、初七日を迎えるまでを淡々と日記形式で描いている。
(父の)「寝姿の蝿追ふ今日が限りかな」
「父ありてあけぼの見たし青田原」
父の死後、遺産の相続問題で義母や弟と揉めることになるが、その近親との確執や、病床の父に冷たく当たるさまなども、かなり生々しく描かれている。読んでいて痛々しいほどだった。この作品が最初の私小説とも、自然主義文学とも言われる所以である。(ただし、相続で揉めた義母らをかなり悪人に描いているところは、ややオーバーに書いているような気もする)

一方『おらが春』は一見のどかな題名ではあるが、内容は大違いな作品。
一茶は幼くして母に死に別れ、継母に冷たく育てられて、長い間流浪の生活を送っていた。その一茶も、五十代になりやっと郷里に戻ることができ、五十六歳でやっと結婚し、子どもも授かる。ようやく人並みの幸せを手に入れることもできた。
その我が子の誕生と、すくすくと育つ様子が生き生きと描かれる。
「名月を取ってくれろとなく子哉」
「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」
かと思ったら、あっという間に、愛する我が子が病になり、先立たれてしまう。
「露の世は露の世ながらさりながら」
「ともかくもあなた任せの年の暮れ」
『おらが春』という題名は、「めでたさもちうくらいなりおらが春」という俳句から取られている。一茶の波乱の人生からあらためてこの一句を読むと、全く違う思いを読み手に考えさせらる。 


ちなみに一茶が生涯で詠んだ句は、なんと2万句と言われている。芭蕉は1000句、蕪村は3000句。ケタ違いに旺盛な創作量である。
一茶が生涯で読んだ句は二万句もあるから、その、あまりにも巨大すぎる一茶を、どう理解するか、どんな切り口で迫るかというのはとても難しい問題だ。
教育における一茶の享受は、必然的に、一面的というか、加工されてしまっている。
教育における一茶の享受史は非常に興味深い。
まず、まるで二宮尊徳のような農民詩人としての一茶象(明治)
→自然主義詩人としての一茶(大正)
→国家・国土礼賛の農民詩人(戦中)
→そして博愛主義者としての一茶(戦後、平成)
しかし、何を、どう切り取っても、それをするするとすり抜けてしまうのが一茶という存在だ。
一茶はあなどれない。