小説の創作の難所は、「動機」と「必然性」、あるいは、「ウソをつくなら上手につけ」
「夏の葬列」の続き話をネタとして小説の創作学習のお試しをしている。
教材に力があるので、いろいろな形で続き話に展開していってとても面白い。子どもたちもノリノリで取り組んでいる。
やはり、創作させてみて難しいのは、子どもたちが作る話では、登場人物の行為の「動機」がわかりにくいのと、展開の「必然性」が感じられない点だ。だから「ご都合主義」満載の支離滅裂なプロットができあがってしまう。
文章を書く前には、四コママンガでプロットを作らせている。
だいたい構想がまとまったら、子どもにあらすじを説明してもらう。
それを、私は理詰めで問いかけるようにする。
「ここで急に主人公が……をしたのはなぜ?」
「……という流れになるのはどうして?」
もちろん、相手に応じてつっこみの手を緩めたり、厳しくしたりはある。
このように、断片的な思いつきを「必然性」に貫かれた文脈でつなげていき、虚構の作品世界という「意味」を生み出す営為こそ「創作」であるのだろう。そしてその必然性や登場人物の動機への考察が、人間性への洞察へとつながっていくのだろう。(きっと)
もちろん、この「必然性」は必ずしもわかりやすいものとは限らない。必然性に貫かれたプロットによって表現された世界が、言葉にできにくい、もやもやを表現していると言うこともあり得る。(たとえばカフカの小説のように)
ようは、何をめざして表現しようとしているのかという、どんなウソをこねくり回そうとしているのかという?? 「意味」を作り出す自覚が作者としての生徒にあるかどうかなのだろう。
こういう理詰めなやりとりを通して、作者としての自覚を引き出し、文学的な想像力が鍛えられていくことになるのがとても面白い。