2015/06/27

伝統的な教育方法は、本当に伝統的なのか? 〜「これからの国語教育」を考えるために〜

新たに開発された手法がいいのか、それとも伝統的な手法がいいのか。
「やっぱり新しいほうがいいな」、「うんにゃ、古いものも大事」と、両方の信念が対立し、しばしば堂々巡りの議論になってしまう。
しかし、こういう物の見方もできないだろうか。
「昔ながらの伝統的な教育方法は、本当に伝統的なのか?」と。
「昔ながらの」っていったって、その歴史はせいぜい百年だ。だいたい、国語科が成立したのも日本の近代、そのなかでも100年足らずなんだから。
しかし、その100年よりもっと前に「学校」は存在しなくても教育という営みは行われてきたはずだし、言葉は学ばれてきたのだ。そういう長いスパンで見れば「100年」という時間さえ「最新」の「特殊」なものなのかもしれない。
「学校」という制度、40人学級という規模、黒板とノート、教科書という学習環境の枠のなかで、最も最適化されて成立してきたのが、今の日本の教育方法だ。その硬直化された発想をどう揺さぶっていけばいいのか、どんなアプローチで考えていけばいいのか、いや、そもそも揺さぶる必要があるのか。それを考えるのは、決して文科省のお偉いさんだけの仕事ではないだろう。