2015/06/28

「何をやってもいい!」から「何をやったらいい?」へ

私が教員になったのが世紀末の1999年。そのころは「総合的な学習の時間」がスタートし、週5日制になりと、いわゆる「ゆとり教育」に向けて日本の教育が大きくかじを切った時代だった。受験勉強よりも大切な学びがある!というロマンあふれる時代状況。
新卒で赴任した学校でも、新たに始まる総合の時間に何をやろうかみんなで試行錯誤していた。今考えるとかなりハチャメチャなことを総合でやっていたんだけど、そこには「何をやってもいい」という安心感と、「こんなことをやってみたい」という教師の思いがたしかにあった。そういう思いで学校が動いていたような気がする。
その後、総合的な学習の時間もなんとなくパターン化されるようになった。どこの学校でも、やってることは似たり寄ったり。全国学力調査のあおりもあり、総合が朝ドリルに流用されることもあった。そんなに総合で遊んでもいられないという教師の自己規制も働いたのだろう。総合にかぎらず、学校行事も、特別活動も、もちろん教科の学習も、あらゆる学校教育の論理が「何をやってもいい!」から「何をやったらいい?」へと揺れ動いてきているように体感している。
その「何をやったらいい?」と伺いを立てる相手は、教委だったり、保護者だったり、評価やエビデンスという得体のしれないものだったりするわけなんだけれども、それらに共通する心性は、教員たちが日々行ってる営為(教育)に対する獏とした不安感と、教師が常に、誰かや何かを頼りにしようとする「上目遣い」にあるのだとも感じる。この傾向は今後ますます進んでいくことだろう。そしてマックやセブン-イレブンのように学校教育も規格化へと進んでいくのだろうか?
これを時代の変化というのは言いすぎだろうか? ただ単に、私がオヤジになっただけなんだろうか。