2015/06/27

正統的(オーソドックス)な教育方法は、本当に正統的なのか? 〜「これからの国語教育」を考えるために〜

国語の授業で、ある文章を読んだり、書いたりするときに、日本中のどの教室でも行われているようなオーソドックスな方法がある。(たとえば「三読法」のような)
それは、学校から一歩外に出た時に、本当に「オーソドックス」な方法なんだろうか。
作家や新聞記者や政治家が書くときも、そうやって書いているのだろうか。
ビジネスマンや主婦やエンジニアが読むときも、そうやって読んでいるのだろうか。
「オーソドックス」っていったいどこにあるんだろう?
学校で習っている読むことや書くことが、もし学校外のそれとはかけ離れているとするならば、「学びの連続性」が絶たれているのならば、それを「オーソドックス」と主張する根拠は、いったいどこに根ざしているんだろうか?