2015/06/18

つぶやくのか、つっこむのか ~授業の中の「生活言語」と「学習言語」~

ここ最近の関心は、授業の中にいかに生活言語を組み入れ、それを学習言語につないでいくかという課題がある。
実習生の授業でも、どこで生活言語が生かされ、そして学習言語へと転換されているのかを注意深く観察している。
昨日からの授業で、実習生は一つの試みをした。それは、文学作品を読んで感想を書き込む際に「突っ込みを入れるように書いてね」という助言のパターンと、「つぶやくつもりで書いてね」というパターンの二つを試してみたのだ。まさに迷ったときは仮説実験。
で、予想通りに、「つっこみ」と「つぶやき」とでは、明らかに表出される『感想」は異なるのだ。
「つっこみ」の場合は、「……なのかよ!」というような、登場人物の行動を対象化し、批評的なまなざしの感想になっていく。
いっぽう「つぶやく」ように書き込ませると、「……の言葉が分からない」という感触を書いたり、「……なのかも」というような、登場人物の心情にやや寄り添った「感想」が増えてくる。
ちょっとした切り口を変えてみるだけで、これほど表出される「感想」が違ってくることに、実習生と軽い驚きを感じた。
 
ちなみに、いうまでもなく「つっこみ」も「つぶやき」も、生徒にとっては生活言語に近い。一方「感想」は学習言語に属する語彙だろう。
「感想を書きましょう」という、いかにも学校的な「学習言語」をちょっと生活言語によらせるだけで、これだけの変化が生まれるのだ。


もう一つの課題は、
生活言語……日常的なコミュニケーションで用いられる言語
学習言語……授業でのやりとりや教科の学習で使われる言語
と、
社会で使われている言語との3つをどうつなげていくかという課題だ。
たとえば、学校でしか使われないような特殊な言葉(学校方言?)をどう教師はとらえていけばよいのか。
一方、学校ではなかなか触れない言葉でも、社会では一般的に使われる言葉がある。
たとえば今日の授業では「コンセプト」とか「差別化」という言葉を「教えた」。しかし、これらの言葉は学校ではほとんど使われない言葉でもある。それらは教えなくてもいいのか、教える(習得させる)べきなのか。
そのへんのジレンマに悩まされている。