2013/08/18

ロシアの表情~モスクワ、サンクトペテルブルグ、そしてソ連邦~

隣国ロシアをイメージするのは難しい。
というか、いろいろなイメージがつきまとわりすぎてしまっているから、「何となく怖い国」という漠然とした想像しか今まで持てていなかった。
ソ連時代の社会主義、全体主義国家のイメージ
KGBやマフィアが暗躍する危ない国
ドストエフスキーなどの文豪が描いた重苦しい世界
シベリアなどの広大な自然、大地
ロシアに訪れる前はせいぜいその程度のイメージを持っていたに過ぎない。
そしてそれらのイメージが、実際に訪れて大きく崩れたというわけではないが、やはり実際に現地まで足を伸ばし、その国に生きる人の話を聞いた経験はとても貴重だった。
忘れないうちに書き記しておこうと思う。

レーニン廟と全体主義国家、ソ連邦
ロシアの一つ目のイメージは、やはり「ソ連」だ。
社会主義大国ソ連がどのような国であったか、その社会のなかで生きる人はどんな思いでいたかを、現地に訪れて知りたいと思っていた。
首都モスクワはやはりソ連時代のおもかげが今でもかなり残っている。
赤の広場

レーニン廟
レーニン廟の向かいにはグム百貨店がある
「赤の広場」はクレムリン(城塞)の外側に位置するロシアで最も有名な広場だ。
城塞の中央にはレーニン廟が建っている。今でも革命の指導者レーニンが剥製?になって眠っている。もちろん写真は撮れないが、意外に小柄だったのにびっくりした。
皮肉なことにレーニン廟にはかつてのように長蛇の列になって見学をするスポットにはなっていない。若い人にはほとんど人気がない。しかし中国人観光客には大人気だった!
レーニン廟に向かい合って建つグム百貨店は、今では西側諸国のシャネルとかカルチェのような高級ブランドが店を並べる、若者やお金持ちたちの超人気スポットとなっている。

モスクワ市内にはレーニン像や社会主義プロパガンダのレリーフは至る所にある。
レーニンの妻やエンゲルスなどの社会主義の指導者たちの像もそのまま残っている。
(しかしスターリンの像は民主化後移動させられたという。
また、市内にはスターリン様式といわれる、巨大でいかつい建物があちこちにある。
モスクワ大学
外務省
そして特筆すべきは地下鉄の豪華さだ。
これもスターリン時代、市民たちに社会主義のすばらしさ、豊かさを実感させるために命令して作ったものだという。宮殿のような内装のところどころには、社会主義のプロパガンダのためのレリーフが飾られている。

モスクワ市内の地下鉄、キエフスカヤ駅

地下鉄構内のプロパガンダレリーフ
これらの建物を見ると、「ソ連だなあ」という実感する。
スターリン様式の豪壮な建物や宮殿のような地下鉄を見ると、まるで、映画「未来世紀ブラジル」が描いた全体主義国家のディストピアを彷彿とさせられる。(もちろんモスクワが本家、モデルなのだろう)

さて、こんなソ連時代を生活した人はどのように感じているのだろうか。
モスクワをガイドしてくれたBさんは、刑事コロンボのようなくたびれたかっこうのおじさんだ。
ウオッカ好きが顔に表れている陽気な話し好きの方だった。
そのBさんにソ連時代のことをいろいろ聞いてみた。
Bさんはソ連時代、日本の社会党青年団?がソ連に派遣されたときのガイドの仕事をしていたという。
社会党では、毎年5~6人程度の若者の党員をソ連へ派遣し共産党組織で研修をさせていたのだ。
(社会党や共産党の左翼政党がソ連と密接なネットワークを築いていたことを今まであまり知らなかったから、それがまず驚きだった)
それで、民主化になったとたんにその仕事はなくなったから、読売や朝日などの大手マスコミ取材に随行する通訳として転職した。チェチェンなどの危険な紛争地にいくといいお金になったという。

「ソ連が崩壊して何が変わりましたか?」と単刀直入に聞いてみた。
「うーん、なにもかも、ウラシマタロウのようなものです」と、Bさんは語り出す。
ソ連邦の時代は80パーセント以上が貧乏だったから、一部のお金持ちを除いて平等だった。治安もよかった。
しかしロシアになってからは人々は豊かになったけれど、貧富の差はものすごく開くようになった。治安もとても悪くなった。
ソ連邦の時代は医師や学校の先生など、社会のために貢献する職業が人気があった。
しかし現在では若者たちは、お金がたくさん入るような石油や天然ガスなどの企業に就職することが夢なのだという。

Bさんは今でもレーニンやスターリンを尊敬している。
社会主義は思想としては悪くないと感じている。
スターリンの郷土では、彼はいまでも天才的な指導者、偉人として顕彰されているという。
Bさんのこの話を聞いて私はとても意外に思った。
私は、粛正をしまくったスターリンは悪の権化であり、共産主義、社会主義などの全体主義的思想は人を縛り抑圧するものだと感じている。共産主義なんてまっぴらごめんだ。
だから、ソ連を崩壊させ、民主化を成し遂げた多くのロシア国民にとっては、ソ連時代は憎むべきものなのかなあと思っていた。その予想は大きくくつがえされた。
もっとも、これはBさんだけの、一部の見解に過ぎないかもしれない。
しかしモスクワの町なかには今でもレーニンや社会主義指導者の銅像が建っている。それらはとてもきれいに整備されている。
ひょっとしたら彼らにとってソ連時代はそれほど悪いもの、憎むべきものとしてとらえられていないのではないかという気さえしてくる。
ウラシマタロウの竜宮城はいったいどっちなのだろう?

爛熟・退廃の街、サンクトペテルブルグ
サンクトペテルブルグの街に訪れて感じたキーワードは「爛熟・退廃」の人工都市だ。

そもそもサンクトペテルブルグは街としてはそれほど古くはない。
ピョートル大帝がモスクワからサンクトペテルブルグに街を建設したことから歴史はスタートしている。それが1703年ということだから、日本で言えば江戸の元禄時代のことだ。
ピョートル大帝は、青年時代にお忍びでオランダなどに留学したこともある、
そしてヨーロッパの進んだ文化や科学技術をいち早くロシアに移入しようと考えていた。
だから、内陸部のモスクワではなく海に面したこの都市を建設し、ヨーロッパ進出への足がかりを得ようとしていたのだ。
サンクトペテルブルグの街自体もオランダのアムステルダムをモデルとした、運河が縦横に張り巡らされた美しい人工都市である。
この辺の事情は文明開化を進めた明治の日本国家と似ている。
ロシアも日本も、地政学的に「辺境」なので、進んだ中央文化にいかに追いつくかというのがつねに課題であったのだろう。
サンクトペテルブルグは、
運河が縦横に走っている美しい街だ
夏の宮殿は噴水が見事

エカテリーナ二世が大黒屋光太夫と謁見した広間

ロシア革命の舞台となった冬宮前の広場
サンクトペテルブルグに訪れると、近代ヨーロッパが「冷凍保存」されたような町並みが現在でも残っている。運河、宮殿、教会、広場、そのどれもが18世紀の様式で残されている。
サンクトペテルブルグばペトログラード、レニングラードなどいくつもの呼び名に変わっているが、大戦中は「レニングラード包囲戦」というナチスドイツの攻撃によって、一度壊滅状態になっている。
レニングラード包囲戦(レニングラード封鎖とも)では、900日もの間ドイツ軍に包囲され、街全体が兵糧攻めの攻撃を受けた。
死者は100万人とも言われている。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回るほどだったという。驚くべき損害だ。
サンクトペテルブルグの教会や宮殿などには、わずかながらではあるがかつての戦争の痕跡を伺うことができる。きらびやかな宮殿の奥には戦争の記憶が眠っている。

レニングラード包囲戦とともに古都を襲いかかった衝撃は、ロシア革命とそれに伴う社会主義の政策だった。
社会主義は基本的に宗教を否定している。
そのため多くの修道僧がシベリア送りにされたり、教会の見事な建物が爆破されたり、当てつけのようにじゃがいも倉庫や迷信を否定する科学博物館にされたという。
そのような社会主義者による宗教弾圧も、愛国心の発揚や窮乏への慰みのために次第に容認されるようになってきたという。
これほどの美しい教会やロシア民衆の深い信仰心は、理性や論理の力ではねじ伏せることができなかったのだ。
ねぎ坊主が印象的なロシア正教の教会
ロシア正教の教会は、イコン(聖人の絵)を信仰する
ドストエフスキーを体感する
私にとってサンクトペテルブルグといえばドストエフスキーだ。
ドストエフスキーの数々の小説の舞台となったこの町には、ドストエフスキーの家や、『罪と罰』のラスコーリニコフの家、金貸し老婆の家、ソーニャの家などが残されている。(もちろん実話ではないけれども、街の建物にそのような表示がさりげなくしてある)
『罪と罰』のクライマックス、ラスコーリニコフが大地に接吻する「センナヤ広場」ももちろん残っている。
ラスコーリニコフの家

ドストエフスキーのレリーフが!
ラスコーリニコフの家からセンナヤ広場までは歩いて五分程度。うすら明るい白夜の中これらの街を歩いて回ったことは、どきどきするほど興奮する経験となった。
『罪と罰』(米川正夫訳!)の冒頭の言葉が頭の中でなんどもリフレインしていた。

ドストエフスキーの家近くの街角
七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。

ラスコーリニコフやドストエフスキーが歩いたであろう街は、サンクトペテルブルグ市内でも下町に属する。
きらびやかな宮殿がある中心地が位置から二〇分ほど歩いたところに、この下町が広がっている。観光客が歩き回るような街では決してない。
くたびれた建物とむんむんした臭気と、おじさんたちがうろうろとしている雑踏や路地裏は、おそらくドストエフスキーが暮らしていた頃とかわっていないだろう。
退廃を感じさせる町並み
ドストエフスキーが生活した時代、革命が起きる前夜の時代もきっと、きらびやかな宮殿のすぐふもとに、この薄汚れた街が広がっていたことだろう。
「猖獗を極める」とか「退廃」とかいった、ドストエフスキーの小説を読んで知った言葉たちの意味が、この街を訪れて初めて実感できたような気がした。






ロシアののどかな風景、じゃがいもおばあちゃん
ロシアの若い女性はびっくりするほど美しい。
ミスユニバースに選ばれてもおかしくないような、ものすごいスタイルと美貌とファッションセンスをもっている。そんな女性があちらこちらを歩いている。
しかし、3,40代を過ぎるとその容姿は一気に革命を起こす。
ロシア人曰く「じゃがいもおばあちゃん」。マトリョーシカのようなふくよかな体型、ロシアの母なる大地を体現したかのような恰幅のよいおかあちゃんになってしまう。
ロシアの家庭ではだれよりも女性(母)が強いのだという。
しかし最近では離婚率もとても高く、出生率もかなり低いらしい。これも女性の自立の現れ??
スズタリというのどかな村
モスクワを少し離れるだけで、とこのような緑が広がる
ロシアは大地に対する信仰や愛着がとても強いという。
どこかうそくさく幻想的な宮殿の美しさも確かにすばらしいが、ロシアの悠然とした大地やのどかな風景の美しさもまたすばらしい。
モスクワからサンクトペテルブルグの間の村をすこし巡ったに過ぎないが、ゆるやかに広がる野原はとてもすがすがしかった。日本のように急峻な山があまり見当たらず、とても見通しが広いのだ。
このような豊かな自然に触れることができたのもロシアを訪れた収穫だった。