2013/08/20

『はだしのゲン』閲覧規制問題は、「学校図書館の選書規準開示」というパンドラの箱を開けるか?

某市教育委員会における『はだしのゲン』閲覧規制問題がかまびすしい。
『はだしのゲン』の描写や歴史認識が教育上ふさわしくないという理由で地域住民から陳情を受け、教育委員会が学校図書館にある『はだしのゲン』をすべて閉架にしろという指示を出したという問題だ。

『はだしのゲン』がふさわしいかどうかという議論ももちろんあるだろう。
しかし、私は学校図書館に関わっている身として、この問題はもっと深刻なものを提起していると思う。
「学校図書館にどのような本を置くべきか」ということに対して行政が具体的に踏み込んでくるという事態である。

図書館にどのような本を置くべきか、ということについて、図書館関係者と『図書館戦争』の読者だったら誰でも「図書館の自由に関する宣言」という格調高い文章を想起するだろう。
少し長いが資料として全文を引用する。(知っている人は飛ばして読んでください)

図書館の自由に関する宣言

1954  採 択
1979  改 訂

    図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
  1.  日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
    知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
    知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
  2.  すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
  3.  図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
  4.  わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
  5.  すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
    外国人も、その権利は保障される。
  6.  ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
    この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。

第1 図書館は資料収集の自由を有する

  1.  図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない。
  2.  図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
    1. (1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
    2. (2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
    3. (3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
    4. (4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
    5. (5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主 張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。
  3.  図書館は、成文化された収集方針を公開して、広く社会からの批判と協力を得るようにつとめる。

第2 図書館は資料提供の自由を有する

  1.  国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。
    図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。
    提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
    1. (1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
    2. (2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの
    3. (3) 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料
  2.  図書館は、将来にわたる利用に備えるため、資料を保存する責任を負う。図書館の保存する資料は、一時的な社会的要請、個人・組織・団体からの圧力や干渉によって廃棄されることはない。
  3.  図書館の集会室等は、国民の自主的な学習や創造を援助するために、身近にいつでも利用できる豊富な資料が組織されている場にあるという特徴を持っている。
    図書館は、集会室等の施設を、営利を目的とする場合を除いて、個人、団体を問わず公平な利用に供する。
  4.  図書館の企画する集会や行事等が、個人・組織・団体からの圧力や干渉によってゆがめられてはならない。

第3 図書館は利用者の秘密を守る

  1.  読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
  2.  図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない。
  3.  利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。

第4 図書館はすべての検閲に反対する

  1.  検閲は、権力が国民の思想・言論の自由を抑圧する手段として常用してきたものであって、国民の知る自由を基盤とする民主主義とは相容れない。
    検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らかである。
    したがって、図書館はすべての検閲に反対する。
  2.  検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある。図書館は、これらの思想・言論の抑圧に対しても反対する。
  3.  それらの抑圧は、図書館における自己規制を生みやすい。しかし図書館は、そうした自己規制におちいることなく、国民の知る自由を守る。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
  1.  図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展をはかる重要な指標である。図書館の自由が侵されようとするとき、われわれ図書館にかかわるものは、その侵害を排除する行動を起こす。このためには、図書館の民主的な運営と図書館員の連帯の強化を欠かすことができない。
  2.  図書館の自由を守る行動は、自由と人権を守る国民のたたかいの一環である。われわれは、図書館の自由を守ることで共通の立場に立つ団体・機関・人びとと提携して、図書館の自由を守りぬく責任をもつ。
  3.  図書館の自由に対する国民の支持と協力は、国民が、図書館活動を通じて図書館の自由の尊さを体験している場合にのみ得られる。われわれは、図書館の自由を守る努力を不断に続けるものである。
  4.  図書館の自由を守る行動において、これにかかわった図書館員が不利益をうけることがあっては ならない。これを未然に防止し、万一そのような事態が生じた場合にその救済につとめることは、 日本図書館協会の重要な責務である。
引用終了。

つまり、『はだしのゲン』問題に関する論点を集約すると、図書館というものは、国民の知る権利を保障するためのものであるから、この本を置くべきだとか、この本は読ませるな、などの行政の不当な口出しは許されないということなのだ。

しかし学校図書館ではどうなのだろうか? 
「図書館の自由に関する宣言」はどの程度認められるのだろうか?

学校図書館は「学校の教育課程の展開に寄与する」(学校図書館法)という大原則がある。
だから限られた予算で図書をそろえなければいけないという制約から「学校の教育課程の展開」に直接関係ないようなものは学校図書館には置かないという選択をせざるを得ない。

「学校の教育課程の展開」とは、つまり学校の教育活動だ。
そして学校の教育課程は「学校において編成する」(学校教育法)とされる。
各学校の裁量に任されているものなのだ。(もちろん教育基本法や学習指導要領等の法令に準拠しなければいけないことはいうまでもない)
学校の教育目標や、その教育活動は学校独自に決められるものである。

学校図書館にどのような本を置くべきかという判断や、どんな本はふさわしくないかという判断、つまり「選書規準」は、どの学校でも暗黙のうちに形作られている。

たとえば
・漫画は手塚治虫以外入れない
・村上春樹はノーベル賞級の文学者だけどHな描写があるから入れない
・山田悠介は中学生に大人気だけど、グロいから入れない
・ラノベは内容が軽薄すぎるから入れない
などなど。
……選書規準というか、司書教諭の暗黙の線引きのようなもの。
こんな具体的に生徒たちに言うことはもちろんないはずです。
学校によってもその線引きは全く異なりますし、そうあるべきものだと思います。

これらの「選書規準」はもちろん教育委員会で指定するものではない。学校ごとに、極端に言えば図書館担当者の独断??で決めているというのが実情なのだ。
だいたい、いちいちすべての作品ごとに、学校図書館に入れるべきかどうかなんて決められるわけがない。すべての本を読んでいるヒマなんてない。だから、ぼんやりとしたものにならざるを得ない。

しかし、今回の『はだしのゲン』閲覧制限騒動によって、ひょっとしたら全国各地の教育委員会が、各地域の学校図書館に、どのような本を入れているのか選書規準を明示せよと指示する事態になるかもしれない。
どんな本を購入したかとか、どのような蔵書があるかとかを情報公開せよ、開示責任を果たせと言われるかもしれない。
そんないやな予感をこの事件から感じるのだ。

そしてその選書規準や、配架されている資料について、行政や「地域の方々」からクレームや要望をいただくような事態にまで発展するかもしれない。
少なくとも『はだしのゲン』騒動では、それがわれわれの目の前で行われているのだ。

「われわれは団結して、あくまで自由を守る」ことができるだろうか?