授業の中で教師と生徒のコミュニケーションだけでなく、子ども同士でコミュニケーションをして、ともに学び合うことがたいせつであることは誰もが否定しないだろう。
私も、単元の中で生徒がお互いにコミュニケーションをとりあって学ぶ機会をできるだけたくさん取り入れたい思っているし、そうすべきだともおもっている。
しかし、「子ども同志が教えあう」スタイルの交流については、学習効果の面で素朴な疑問がある。
一番の疑問は「教えないこと」を選びにくいという点だ。
「みんなで教えあおう!」と教師が指示したとする。
素直な子どもたちならば、そこで、お互いに教えあって学んでいく。
しかし、「学ぶこと」は必ず「教えること」とセットなのだろうか?
「教えなくても学んでいく」ことはないのか? 教えることが学ぶことをスポイルし、学んだつもりにさせてしまうということにはならないだろうか?
※ここでの「教えること」を定義すると、答えにいたる視点やヒントを出したり、答えについての根拠などを説明することとする。
もちろん、オールオアナッシングではない。教え合うスタイルの学習活動が、ある時には有効、ある時には不要ということが言いたいだけだ。
国語科の学習活動、とくに言語活動を通した学習活動においては、子どもが自分なりに創意工夫し、試行錯誤しながら言語活動に取り組んでいくことが重要だと思う。
つまり、自転車に乗る練習のように、まずは自転車に乗ってみて、転びながら上手に運転する技能をマスターしていくというスタイルの「学び」である。
作文を書く技能を身につけるためには、なによりも書くことによって、読む力をつけるにはなによりも読むことそのものによって、能力が高まっていく。
このような「活動を通した学び」においては、答えにいたる視点やヒントを出したり、答えについての根拠などを説明することは必ずしも有効とは限らない。
「答え」というものがそもそもない場合がある。それに「答え」とか「やり方」を教わったとしても、それができるようになるかどうかは別問題だ。
作文の書き方を1年間教えられても、作文が上手に書けるようになるとは限らない。
文章の読み方を教えられても、それで読めるようになるとは限らない。
実際に文章を書き、文章を読む、その創意工夫と試行錯誤の繰り返しの中に、国語における「学び」があるからだ。
創意工夫と試行錯誤を促進させるための「教え合い」であれば有効だろう。(たとえば感じたことをフィードバックしたり、多様な考えを交流したり)
しかし、もし「教え合うこと」が目的になってしまったら、個の「学び」がないがしろにされる危険性はないのだろうか?
じっくりと考えたいのに思考が邪魔されたり、粘り強く問題を解決したいのにそれが他者によって中断させられたり、失敗したり練習するための時間が十分にとれなかったり。
他者が教えないこと、放っておくことも「学び」においては実は重要だったりする。
学ぶ環境、「場」さえ整えれば、教え合ったりしなくても、ひとりでに学んでいくと言うこともある。
「教えること」は必ずしも「学び」とセットではないのではないか。