2013/08/21

「コミュニティーとネットワーク」試論~学級づくりの視点としての「国会モデル」と「会社モデル」~

私の思考の癖は「たとえで考える」ことと「列挙する」ことだ。
目の前の現象を、とりあえず他の似ているものに置き換えてみる。そうすると、その構造や見えない働きなどが明るみになってくることが多い。
また、とりあえず列挙する、数多く出してみるというのも私の思考の方法だ。思いつく限り、もれなく抜けなくダブりなく出してみるのだ。
そうすることで思考が思考を誘発し、あらたな発想が生まれるかもしれない。

「学級づくり」について「たとえ」と「列挙」で考えてみる。
学級づくりにはさまざまなスタイルがあると思う。

・国会モデル……先生は天皇? 生徒は国会議員?
最も一般的なモデルは「国会モデル」ではないか。
どの学校にも生徒会という「議員」がいて、生徒総会という「国会」や学級会などの会議が行われる。委員会などの分担もある。総理大臣としての生徒会長がいる。
学級でもそれと同じ原理で、学級会長や班長がいたり、係があったりする。
先生は会長を支援する「天皇」のような存在か??
しかし、国を統治するシステムという議会制民主主義に、学級という小規模のコミュニティーが適しているのだろうか?

・会社モデル……先生は経営者、生徒は社員
「学級経営」という言葉がよく聞かれる。
「経営」という発想は「会社モデル」の考え方だ。
社長(経営者)のビジョンに従って、社員(生徒)を上手に動かしていく。
しかし、そのスタイルは本当に学級というコミュニティーにとってふさわしいのだろうか?
そもそも「学級」としてのビジョンとか目的というものが必要なのだろうか?
(個人としての目的とか目標をもつことはもちろん否定していない、しかし「クラス」という集合体が「目標」を持つことが、必ず必要だとされる根拠はあるのだろうか?)
ちなみに私は「学級経営」という言葉をほとんど使ったことがない。
なんとなくそういう「経営者」のような感覚になれないからだ。

・家族モデル……先生はお父さん、お母さん、生徒は我が子
いわゆる金八先生のように生徒を我が子として抱え込むスタイルだ。
我が子のためには全身全霊で守り通す。
我が子のためには自分を犠牲にする。
クラスは家族、クラスメイトは兄弟。疑似家族としての学級。

・教会モデル……先生は教祖様、生徒は信者
カリスマ教師の場合はそういうクラスになることもある??
洗脳された生徒の姿……

・レジャーランドモデル……先生は店員、生徒はお客様
マクドナルドやディズニーランドのように、教室に来ているお客様(生徒)を楽しませ、居心地の良いものにするためにひたすら店員(先生)ががんばるスタイル。
ポイントは「おもてなし」。
ゲーミフィケーション、PA、ディズニーランドなどの発想も、ひょっとしたら学校にもあるのかもしれない。

さて、さまざまなモデルを列挙したのだが、これからの学級づくりは、どのようなモデル、スタイルを志向すべきだろうか?

私が学級において一番大切にしたいのは、「個」を生かす人間関係としての集団である。
集団が個を圧殺することがある。
個がばらばらで、孤立をうながす集団(烏合の衆)もある。
そのどちらでもなく、集団が個を生かすような集合体、関係性こそ、理想だ。
そのときに必要な視点はなんだろうか?
・国会モデルだろうか?
・会社モデルだろうか?
・家族モデルだろうか?
……答えはまだでていない。

しかし、私は、クラスを「人間関係の集合体」として見る場合、これからは「コミュニティーとネットワーク」という視点はどうしても必要だと思う。
すべての人間関係は何らかの形で「ネットワーク」をもち「コミュニティー」を形成している。

・コミュニティーは「同質性」によってつながり合う共同体
クラスでいつも一緒にいる仲間がいる。そのとき、クラスの中で小さなコミュニティーが生まれている。
コミュニティーは時間の経過とともに自然に深まっていき、凝集性が高まることを志向する。
凝集性が高い方が生産性が上がるが、凝集性が高すぎると閉鎖的になり、息苦しいものとなる。

・ネットワークは「異質性」を契機につながっていくリンクの集まり
ネットワークは、見知らぬ他者へと働きかけ、つぎつぎと関係を広げ、アプローチしていく流れをいう。
ネットワークは時間の経過と共に自然に広がっていき、複雑になることを志向する。
ネットワークは狭いよりも広いほうが有利だ。
弱い絆であっても、幅広くリンクを張っている方が有益なこともある。
(遠くの親類より近くの他人、「弱い紐帯の強さ理論」)

コミュニティーとネットワークは両者相克しながら関係が変容していく。
A、コミュニティーとネットワークの両方が充実している
B、コミュニティーは充実しているけどネットワークはない
C、ネットワークは充実しているけどコミュニティーは貧弱
集団は常にその3つの様態を揺れ動く。

クラスづくりも「コミュニティー」「ネットワーク」の両方の視点が必要だ。
コミュニティーを深める志向と、ネットワークを広げる志向と
同質性や共感によってつながりを深め合うことと、他者の異質性から学び、広がっていくことと。

実はクラスは一つのコミュニティーとは限らない。
クラス内に無数のコミュニティーがあり、ネットワークがある。
それらは同時進行、多声的なものである。
子どもたち(人間たち)は多声的なコミュニティー、多くのコミュニティーを同時に生きる。

現在の学校の息苦しさの原因は、ひょっとしたら
B、「学級」という単一のコミュニティーはあるけど、外に広がるネットワークはない
というものではないか?
(それが「クラスで心を一つに!」「団結しよう!」という言葉で教師が毎日煽っているとしたら……)

教師の役割は、子どものネットワークを広げ、多声的なコミュニティーを用意することにある。
そのような多種多様なコミュニティーが、クラスの中に、あるいはクラスや学校という枠を超えて、自然発生的に生まれてくるよう「ビオトープ」のような「生態系」を用意することが重要なのではないか?

これからの学級作りのモデルとして明確な答えは用意できていない。
わたしは、これからの学級づくりのモデルとして「まちおこしや地域コミュニティー再生」のモデルにヒントがあるのではないかと思っている。