私は飲み会ではほとんどお酌をしに行かない人間だ。
せわしなく歩き回ることよりは、食べるものを食べ、飲むものを飲んで、しかる後に、話したい人のところに行って話す。そういう流儀だ。……話したくなる人がいない場合は一人で静かに飲む。
……と格好つけて言ってはみたけれども、基本的にはシャイだし、めんどくさいだけなのだ。
がつがつと人に関わっていくのが、余り得意ではないだけなんだけど。
で、そんな私に、両手で瓶ビールを捧げた「若者」がかいがいしく酌をしに来るではないか!
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません××先生。」
「あ、はい」
「いつも先生の……中学校でのご研究に感銘を受けております」
……
と、とても礼儀正しく腰を折る若者。
一気に酔いも覚めて、身が縮こまるほどであった。
恥ずかしくなるくらいのお褒めの言葉をいただいた後、その若者
「ところで、先生はおいくつになられるんですか?」
と、年齢を聞いてくる
「あ、私昭和……生まれですよ」
「昭和……年の何月生まれなんですか」
(ずいぶんマニアックなことを聞くなあといぶかりつつ)
「昭和……年の10月です」
「そうなんだ。私は昭和……なんですよ」
と。
そこで気がついた。その「若者」は、実は私よりも一つ年上だったのだ。
生まれた月までわざわざ確認したのは、同学年の早生まれでないかどうかを確認したかったのだろう。これで、私のほうが学年が一つ下、「後輩」だと言うことがはっきりとした。
そこから、さーっと潮が引いたように雰囲気が変わったのを私は見逃さなかった。
礼儀正しい態度だった彼の様子が、どこかよそよそしいものに変貌したのだ。
……ちなみに、私は見た目はかなり老けている。
実際の年齢に10歳プラスしても気づかれないくらいの「貫禄」を持っている。
だから私の外見と態度のでかさに触れた人ならだれでも、実際の年齢を知ると一様に驚く。そして人によっては態度を変えるのだ。……
そこからの会話はさらに奇妙だった。
「いまどんな研究をしているんですか?」と私、
「ええ、……ですけど」と素っ気なく彼
「……という視点で授業とか取り組まれると、きっと面白いですよね」と私
「はい。もちろんそのつもりですけど…」と彼
会話が……会話が弾まない!
自分は、ちょっとでも、一緒に大好きな授業のことを語り合おうと思っているんだけど、そこに「見えない壁」のようなものがあるのだ。何か寂しい。
私は、ひょっとしたら、年長者の方にとっては無礼な人間、年下の人にとっては礼儀正しい人間と思われていることだろう。
年長者だからといって聞きたいことがあったら聞く、言いたいことがあったら言うし、年下だからという理由で、その人の前で尊大に振る舞ったりはしていないつもりだ。
ましてや「肩書き」があるかないかなんて関係がない。
「肩書き」がある人には、さすがと思わせるような見識や知識、経験をもたれている場合が比較的多いということはある。だから、尊敬すべきは「肩書き」という記号ではなく、その人の見識や知識であるはずだ。(見識を持たない「肩書き」のある人、それで偉そうにしている人ほど、人として軽蔑するものはない)
だから、時折、私は寂しい思いをしたくないので、最近では肩書きや年齢をなるべく隠して人と接するようにしている。肩書きや年齢というフィルターによって接し方を変えられるのがたまらなくイヤなのだ。
それと同様に、人に対する時も、年齢や肩書きという記号で態度を変えるのではなく、経験や知識、見識から吸収して学ぶように心がけて接するようにしている。
本で読んだ話だけれども、あるクリエイターの方は、仕事のことなどでインタビューをするときに、必ず自分よりも年下の人とだけ会うようにしているそうだ。
「年寄り」からは新しい可能性は生まれないというのだ。
これは極端な話だけれども、分かるような気はする。
「年寄り」というのは単に年齢が上と言うだけではなさそうだ。
歳がいくつかというのではなく、精神的に「老成」している人こそ「年寄り」と呼ぶべきものだろう。
向上するものが枯渇してしまっている人、新しい世界に対する興味がない人、伸びていかない人、そういうひとが、自分の狭い経験だけ取り上げて、持論を延々とリピートする。そして年下の人間に対しては、つまらない見識を振り回して上から目線でのたまわる……
そういう方から学べるのは、おそらく最初の一回だけだろう。
私は「若者」にしか期待しない。
「若者」は年齢がいくつかどうかなんて関係ない。
そんな外面的なものではなく、いくつになっても柔軟性を失わない人、学ぼうと思っている人、外に開かれている人には心から尊敬する。
そして、そんな年長者でも若輩者でも、私は敬意を持って「無礼」に話しかけることだろう。