2013/08/07

古文教材の固定化から脱出するために~古典の教材開発の視点~

古典教材のパターン化の危険性
学習指導要領に「伝統的な言語文化」の項目が登場し、小学校段階から積極的に古典が取り上げられるようになった。
国語という教科を通して、日本の文化を享受、継承、そして発展させていくというコンセプトにはとても共感ができる。教養教育としての古典の価値については、今更言うまでもないことだろう。
そこで、問題は何を古典のテキストとして取り上げ、どんなことを学ばせるのかという視点だ。
私が憂慮するのは「伝統的な言語文化」として古典が重視されればされるほど、教師が気軽に古典に取り上げ、触れさせる機会が減少してしまうのではないかということだ。
「教えるべき古典」、「優れた古典」というテーゼが、古典教材や古典教育の教条化、固定化を招いてしまわないかという危惧である。
たとえば、音楽では学習指導要領にて昭和三十三年度から「共通教材」として「荒城の月」や「ふるさと」のような「古典」的な文部省唱歌が学習指導要領で取り上げられている。
国語科ではどうだろうか? 現行の学習指導要領では、小学校においては、低学年では昔話や神話、伝承、中学年では文語の短歌や俳句、ことわざや慣用句、故事成語、そして高学年では親しみやすい古文や漢文、近代以降の文語調の文章を取り上げるように指示されている。
このように踏み込んだ古典教材選択の視点の提示は前代未聞のことである。
かたや中学校ではどうか? 散見する限り、中学校の古典においてはここ一〇年、ほとんどパターン化されてしまっているように見える。
1年生 竹取物語
2年生 枕草子・徒然草・平家物語
3年生 おくのほそ道・和歌
※このテキストに、故事成語や論語、漢詩などの漢文が入る。が、漢文は日本の古文ほど固定化されていない。

提出する順番、そして内容までもがほとんど同じ。
基礎基本を考えれば、これらの古文は間違いなく「教えるべき古典」であり、「優れた古典」である。
しかし問題は、教材が固定化、パターン化されてしまっていることにより、古典の学習そのものが固定化、パターン化されてしまう危険性があると言うことだ。
なぜこの古典を選択するのか、どうやってこの古典を学んでいくのかという、当たり前の教材開発の発想が、固定化された古典分野では十分に生かし切れない危険性があるのだ。

古典を学ぶ意義
我々にとって古典を学ぶ意義とはどこにあるのだろうか?
(本来「古典」といえば日本のものだけではないが、とりあえず日本(漢文含む)のテキストに限定する。

A、文語のことばの響きを味わう
文語文を体を通して味わい、その響きをつかむ
古語の深層にある、日本人を形成している価値観に触れる

B、古人に共感する
・古代から連綿と続く人々の営みや、その喜怒哀楽に共感する
・古典に表れた、日本文化や日本人の精神思潮について思いをはせる

C、古文の世界との違いから学ぶ
・現代とは大きく異なる価値観に触れて、自分たちの価値観を相対化する
・いにしえの人々の生活や生き様を想像する

D、古文を生きる糧にする
・古典に表れた知恵を、自らの生きる糧とする
・温故知新、古典テキストに埋もれている新しい知見に出会う

上記のA~Dが古文学ぶ主ななねらいになってくる。
A~Dはすべて満たさなければいけないというものではない。
最近では、原文ではなく現代語訳を積極的に活用した学習活動も開発されている。

そこで、これらの視点を学ぶために最も適した古典テキストを選択することが必要だろう。

古文教材の固定化から脱出するために
小学校、高等学校ほど、柔軟に古典教材の開発が進んでいないのが現状である。
中学校でも触れることのできる、そして価値ある古典のテキストにはどのようなものがあるだろうか。

A、文学以外の歴史書などの史料的なテキストと関連して扱う
・古事記、日本書紀とヤマト政権
・壬申の乱と万葉集(額田王!)
・方丈記と大地震

B、人物に焦点を当てたテキスト
・紫式部日記と紫式部の短歌
・御堂関白記と藤原道長

C、ゴシップ的なテキストをおもしろおかしく扱う
・今昔物語(本朝世俗部は面白い!)

D、現代語訳との重ね読み
・竹取物語と、複数の現代語訳との比較
・「お伽草紙」と現代の昔話

E、社会科で習った歴史的な文章を読む
・憲法十七条と日本国憲法の比較
・蘭学事始や解体新書、和算などの理科的な内容の古文
・大黒屋光太夫の漂流記
・学問のすすめ
・東海道中膝栗毛などの旅行記と地図

F、地域に残る歴史資料を読む
・神社やお寺の創設の由来
・地域の民話、伝承

G、現代にも残る古文
・お経や祝詞
・地名の由来

これらのテキストを学習材として与える時に重要なのは、読者である生徒の「古典との出会い」を効果的に演出すると言うことだろう。
教科書に出ているから教えるのではなく、理想は、生徒が必要観や興味関心に迫られて読みたくなるような学習活動をデザインすることだろう。
古典は、「偉い人が、この作品が古典!」と言っているから古典なのでなく、一人一人の読者が、テキストと出会い、古典の価値があると認めたときに、初めて古典となるのだ。一人一人が、自分にとっての古典を見いだし、出会っていくというプロセスこそが重要なのだ。
そう考えると、古典との出会いを演出するための、古典の学習活動はもっと多彩であっていいはずだし、教材となるテキストの開発ももっと多様であっていい。
教師の教材研究、創意工夫の余地は大きいと思う。
古典教育はまだまだ十分に開発されていない。