2013/08/18

永遠にして女性的なるもの われらを引きて昇らしむ

自分はあらゆる偏見や差別からは自由でありたいと思っている。
無意味なレッテル貼りやカテゴリーわけは愚かだと思っている。
しかし、男性と女性の違いというものはある程度あるような気がしている。
そして女性(的)なもの(女性であるかどうかではなく)に惹かれるのを自覚している。

いきなり何を言い出すんだと自分でも感じているんだけれども、私の携わる教育の世界でも、好きな文学や音楽、芸術の世界でも、身近で尊敬する人のなかでも、私が注目しているのが「女性」の占める割合が多い気がする。
……やはりこういう言い方は不適切なのだろうか。
その人がその人であるということと同じくらいに「女性だから」「女性的だから」という部分に着目してしまうからかもしれない。
しつこいようだけど、男性/女性というカテゴリーでくくること自体がやはり背徳感というか、ジェンダー意識があるのはよくわかっているんだけど、仕方がない。

自分も含めて、男性(的なもの)を構成するものの中には、やはり権力志向があり、人の上に立ちたい、偉ぶりたい、格好つけたいというプライドとか見栄とか体面を気にする志向が強いように感じる。それが物事の本質を見たり、語ったりするときの障害になったり、逆に促進し、励ますことにもなることはよく実感している。良い面も悪い面もある。
しかし、そのプライドや自信が傷つけられることを恐れるし、プライドが維持できることに汲々としたりするところがあるのはいかんともしがたい。
「……の誇り」とか「……は失礼だ!」とかっていう言い方をするのが、私は体質的に好きではない。
これらは、男性であろうと女性であろうと関係ない。が「男性的なもの」に属するような気がする。

しかし、女性(的ななにか)は、上から目線で、変なプライドとか権力志向でものを考えるのではなく、身体全体で包み込むような感情さとか、大地から根ざすようなまなざしで物事をとらえているような気がする。そういう圧倒的な気持ちの深さには心から尊敬する。
教育の世界でもそうだ。
国語科は特に女性の割合が多いからそう感じられるのかもしれないけど、私が私淑する実践家は女性の方が多い。
男性の実践レポートでたまに見られるのが、言っていることはもっともでとってもカッコイイんだけど、見かけ倒しというか、実践としては貧弱なものがあってがっかりすることがある。(格好つけようと体裁を気にしているとところが、よけいに実践そのものをみすぼらしくさせているのだ)……ああ、これは天につばするコメント、私のことだ……
反対に、女性の先生の実践は、格好つけようという虚飾がないぶん、地味で目立たない、一見提案性のないようなものがあるんだけど、どこかに必ず見るべきものがあるものが多い。無意味な見栄とかプライドではなく、自分の目で見、手でつかみ、築いた記録だからだろうか。
いや、やはり、女性のほうが多いと言うよりは、教育実践や考え方の軸の中にある「女性的なもの」に惹かれるといった方がいいのかもしれない。