2013/08/08

絵の見方を学ぶことの意義~『まなざしのレッスン』レビュー~

『まなざしのレッスン』についての内容を紹介する。
大学での美術鑑賞の講義をもとにして書いたテキストで、まるで講義を聞いているかのように分かりやすく説明している。
主として近代以前までの絵画作品を取り上げ、その絵の見方を具体的に伝授している。
解説のアプローチとして工夫されているのは、時代や作者ごとに作品を説明するというのではなく、何が描かれているのかという主題ごとに解説した点である。
取り上げている主題は、ギリシャ神話、キリスト教の宗教画、寓意画、歴史上の出来事、肖像画、風景、風俗画、そして静物。
それぞれの主題にどのような描き方のパターンがあり、それをどのように描いてきたか、どんな技術が反映しているか、それらにどんな意味が込められているのかを、代表作を取り上げつつ、具体的に説明している。
また、絵画鑑賞を楽しむための視点を10あげている。
たとえば、絵がどこに置かれていたか(教会や宮殿など)や、絵を注文した人の存在など。
こういう、一見美術の本質とは関係のなさそうな知識を身につけることが、絵の見方の大きな影響を与えていることをこの本から学ぶことができる。
一つ一つの説明が目からウロコで、筆者の解説を聞いただけで、今まで見たことのある有名な絵画作品の見方が一変したのはとても新鮮な経験だった、

ただ、難を言えば絵画の写真が小さかったりモノクロで見にくいのと、文章中心のレイアウトがやや取っつきづらところが残念だった。
その点、下記の本(シリーズにもなっている)は、美術鑑賞の手引きとして楽しく、分かりやすく読めてよい。東大生向けでなくぜひ一般向けにも書き下ろして欲しい。


















巨匠に教わる絵画の見かた

視覚デザイン研究所  (1996)



紙面はこんな感じ。とっても分かりやすい!楽しい!
さて、西洋絵画の見方や知識を学ぶということ以上に関心があったのは、そもそも「絵の見方」を学ぶとはどういう意味を持つのかという点だ。
筆者はそれを「自分自身のイメージのネットワークを作る」という言葉で表現している。絵を見る時の前提となる知識、さまざまな絵画を鑑賞してきたという経験、そして自分の生活経験から培われた価値観や審美観、その三者が網の目のような繊細なネットワークを作ることで、作品を十全に味わうことができるということである。
その「イメージのネットワーク」を広げることが、すなわち「まなざしのレッスン」であると言うことに他ならない。

作者は「絵の見方を学ぶことの意義」を次のように述べている。
***
絵など自分の目で自由に見ればよいとする考え方には、実は大きな錯誤があると私は思っています。たとえそう意図したとしても、私たちは必ずしも「自分の目」で見ているわけではなく、「自由に」眺めているわけでもないのです。どこかで聞きかじった断片的知識が、自分の絵の見方に全く作用していないと言い切れる人が果たしているのでしょうか。

「視線」は本来決して「無垢」ではない。見るという行為は学ぶものであり、まなざしは「すでに」教育されているものです。


しかし、純粋に主観的な視線が存在しないように、完全に客観的な視線も存在しえないのです。過去に属する特定の歴史的、社会的、文化的状況下で、自分とは異なる価値観を持つ人間が作り出したイメージという条件が無視できないように、そのイメージを今この私が見ている、特殊な人生を背負ってこの時代を生きているある個人の眼が眺めているという条件も決して消去できない。絵を見るとは、したがって、この二つの条件の間をまなざしが揺れ動くことに他なりません。……知的な手続きを通した作品理解と、文字通り絵肌に触れるような新鮮な視覚体験が、互いを損ねることなく折り合わされたときほど、言いかえれば、今この私が自分の目で歴史的な存在としての作品の内実を追体験したときほど、絵を見る醍醐味を感じる幸福な瞬間はないでしょう。


美術史家が絵に関してさまざまな判断を下したり、おもしろさを見いだしたりできるのは、単に知識の多寡だけの問題ではなく、十分な広さと密度の濃さを持ったイメージの網の目を、一種のデータバンクとして脳内に持っているからなのです。……専門家でなくても、実際の作品を見たり、作品相互を比較したりすることによって、誰のものでもないあなただけのネットワークがきっとできていくはずです。そうした自覚体験の蓄積とあなたの感性とが合わさった時、独自の「趣味」や「美的な判断」と呼べるものが生まれてくることでしょう。


「見ること」を意識化し、自らの「視覚の戦略」を立て直す必要がある。

「見ること」を媒介しにして他者を発見し、自らを再発見すること。

絵というのは自分流に見ても十分面白いが、筋の通った見方を知って接すると、もっと深く、さらに面白く見えてくるものなのです。