2013/08/05

教材としての小林一茶  ~キュレーションとしての価値に着目して~

1、問題の所在
 現行の学習指導要領では小学校国語科で「伝統的な言語文化」が取り上げられるようになった。そのため、小学生向けのさまざまな古典が発掘され、教科書にも採録されるようになってきた。
 低学年では昔話や神話、伝承、中学年では文語の短歌や俳句、ことわざや慣用句、故事成語、そして高学年では親しみやすい古文や漢文、近代以降の文語調の文章を取り上げるように学習指導要領では指示されている。このように踏み込んだ古典教材の具体的な指示はおそらくそれ以前のものでは出されていないはずである。改訂の経緯の中に、伝統的な言語文化の享受、継承し、そして我が国の言語文化を発展想像するという重点が示されているが、それを具体的な形で示したのが、「伝統的な言語文化」の項目というわけだ。
 さて、学校現場で触れることのできる古典として小林一茶の俳句がある。一茶の作品は小学生にもとても人気がある。分かりやすい表現、ユーモアたっぷりの内容など、子どもたちを引きつけるその理由はよく理解できる。芭蕉、蕪村と並んで一茶は俳聖と並び称されているほどの代表的な俳人であるが、彼の作品は、芭蕉や蕪村ほど難解ではなく、「古典」らしさを感じさせないものが多い。おそらく、その時代固有の文化や価値観を超越したまなざしを持っているからこそ「現代性」というアクチュアリティーを持ち続けているのだろう。一茶の作品は郷愁や回顧で語られる作品ではなく、いつの時代になっても「現代文学」でありつづける価値が内包されている。
 一茶の作品をあらためて読み返してみると、教材として取り上げられ、学んできた一茶のイメージと、大人になってからあらためて出会う一茶の魅力が全く異なることに気づくだろう。後述するが、一茶の作品や、そこから垣間見える彼のまなざしは彼の人生と分かちがたく結びついている。先ほどの俳聖の3人で比較をすると、芭蕉は「道」としての俳諧を、蕪村は「芸」として、そして一茶は「生」を詠んだ俳諧とも言われている(山下1967)。一茶の俳句は彼の複雑な生き様と切り離して理解することはできない。一人の人間の人生が、一つの物語に収斂するような単純なものではないように、一茶の作品は、彼の複雑な生き様を理解すればするほど、作品を読めば読むほど複雑な様相を呈する。彼の作品は決して分かりやすくなんかはない。諧謔に満ち、ニヒリズムから発せられる哄笑を感じさせ、そして世にはびこるステレオタイプな価値観を吹き飛ばすエネルギーに満ちている。教科書を通して学ぶ一茶の俳句は、彼の二万句にも及ぶ作品のごく一部を切り出し提示したものに過ぎない。教科書編集の意図によって都合よく加工され、脱色された一茶作品群なのだ。
 それでは、一茶の多様、複雑、重層的な魅力に近づくためにはどのようなアプローチが考えられるであろうか。
 本稿では、一茶の作品の魅力をどのようにとらえ、それをどうやって教育現場において味わうことができるか考察する。

2、小林一茶の人生とその作品
「盥(たらい)から盥へうつる ちんぷんかん」
(赤ん坊のときはたらいで産湯を使い、そして死んだら、たらいで湯灌をして天国へ送ってもらうもらう。人生とは、そのたらいからたらいの間の「ちんぷんかん」なものだ)
 一茶辞世の句という伝説が残る句である。実際は偽作の説が濃厚ではあるが、一茶の人生とその人柄を表す一句ではある。一茶にとって彼の人生はまさに「ちんぷんかん」としか形容できないほどの紆余曲折を経たものであった。
 一茶は北信濃の百姓の家に生まれた、一茶にとってはじめに訪れた転機は、三歳の時に母「くに」を失ったことである。幸いにして祖母が健在だったため、しばらくは父と祖母との三人で暮らしていた、しかし、八歳の時に父が後妻をもらい、その継母に面倒を見てもらうことになったときから彼の置かれた状況は一変した。継母が産んだ義弟仙六の子守をさせられたり、家の手伝いをさせられたりと、苦労、心労の絶えない幼少時代であったようだ。
「抑(そもそも)汝は三歳の時より母に後れ、やゝ長(おさ)なりにつけても、後の母の仲むつまじからず、日々に魂をいため、夜々に心火をもやし、心のやすき時はなかりき。」(『父の終焉日記』)

 後年、一茶は彼の幼少時代を次のように述懐している。
「親のない子はどこでも知れる、爪を咥えて門に立つ、と子どもらに唄はるゝも心細く、 大かたの人交りもせずして、うらの畠に木・萱など積みたる片陰に跼(かがま)りて、長の日をくらしぬ、我身ながらも 哀也けり
 我と来て遊べや親のない雀 六歳弥太郎」(おらが春)

 彼の二度目の転機は、陰ひなたとなって一茶をかばってくれた祖母の死去であった。
「明和五年八月十四日、杖柱とたのみし老婆、黄泉の人と成り消たまふ。有為転変、会者定離は、生あるもののならひにしあれど、我身にとりては、闇夜に灯失へる心ちして、酒に酔へるがごとく、虚舟に浮めるがごとし。旦暮(あけくれ)称名のみをちからに日をおくる。」(『父の終焉日記』)

 祖母の死去に対する彼の落胆は大きかった。一茶はついに決意して郷里を飛び出し、単身江戸に奉公に出る。
「ふとおもひけるやうは、一所にありなば、いつ迄もかくありなん。一度古郷(ふるさと)はなしたらば、はた、したはしき事もやあるべきと、十四歳と云春、はろばろの江戸へはおもぶかせたりき。」(『父の終焉日記』)

 江戸での奉公先で俳諧に出会い、めきめきとその才能を開花していく。二十九歳で俳諧師(業俳)として独り立ちするようになった。全国各地を渡り歩き、弟子に俳諧の手ほどきをすることで生計を立てていたようである。
 三十九歳の時にようやく一茶は帰郷する。しかし、郷里に帰るやいなや、彼を襲ったのは父の発病、そして介護であった。
 一茶が書いた『父の終焉日記』にはこの時の様子が克明に記されている。この『父の終焉日記』は文学史上最古の「介護小説」ともいう内容である。病に倒れた父を懸命に介護するも、絶命し、初七日を迎えるまでを淡々と日記形式で描いている。
「寝姿の蝿追ふ今日が限りかな」
「父ありてあけぼの見たし青田原」
 父の死後、遺産の相続問題で義母や弟と揉めることになるが、その近親との確執や、病床の父に冷たく当たるさまなども、かなり生々しく描かれている。読んでいて痛々しいほどだ。この作品が最初の私小説とも、自然主義文学とも言われる所以である。ただし、相続で揉めた義母らをかなり悪人に描いているところは、やや誇張して書かれているような節を感じる。
 相続問題が決着して、遺産の一部を譲り受け、ようやく故郷に帰り、安住の地を得たころにはすでに五十歳になっていた。故郷柏崎に戻ってきた一茶は、ここで精力的に俳諧の指導にあたる。妻もめとることができた。子どもも四人授かった。彼にとって、五十代になってようやく人並みの幸せを手にすることができたのである。
 『おらが春』からその頃の一茶の様子をうかがうことができる。
『おらが春』には、やっと授かった我が子の誕生と、子どもがすくすくと育つ様子が生き生きと描かれる。
「名月を取ってくれろとなく子哉」
「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」
 しかし、その幸せもやはり長くは続かない。子どもが順調に育っていたかと思ったら、あっという間に、次々と我が子に先立たれてしまう。
「露の世は露の世ながらさりながら」

 四人の子を一年足らずで失い、さらに十年間付き添っていた妻も病で亡くなってしまう。その後後妻を得るも80日ほどで離縁、六十四歳で三番目の妻さやを迎えることになる。
 最晩年の一茶にも不幸が襲いかかる。一茶の住んでいる柏原宿に大火が発生し、彼の住んでいる家も焼けてしまうのだ。結局一茶は焼け残った小さな土蔵で生涯を終えることとなる。(その土蔵は今でも残っている。幸いにして三人目の奥さんは、一茶の死後に子どもを授かることができた。今でも小林家の子孫がご健在だそうだ)
 決して幸せは言えない生涯を送った一茶であるが、どうしてあのような、からっとした句を作ることができたのだろうか。
「われと来て遊べや親のない雀」
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」
「悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな」
「大の字に寝て涼しさよ寂しさよ」
「やれ打つな蝿が手をすり足をする」
「これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺」
など。
 一茶の人生と彼の句とを重ね合わせて読み味わうと、そのニヒリストながらも吹っ切れたエネルギーに圧倒される。

3、小林一茶の享受史
 一茶が生涯で詠んだ句は、なんと2万句と言われている。芭蕉は約千句、蕪村は約三千句。桁違いに旺盛な創作量である。一茶が生涯で読んだ句は膨大だ。
 その、あまりにも巨大すぎる一茶を、どう理解するか、どんな切り口で迫るかというのはとても難しい問題だ。
 時代を追って、一茶の作品がどのように享受されてきたかを整理してみたい。

1)正岡子規の一茶観
 批評の対象として初めて一茶作品が取り上げられたのが明治期、正岡子規によってである。「一茶の俳句を評す」という批評の中で、子規は一茶を取り上げている。
  「天明以後俳諧壇上に立ちて、特色を現したる者を、奥の乙二、信の一茶とす。一茶最も奇警を以て著る。俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり、中にも滑稽は一茶の独壇に属し、しかも其軽妙なること、俳句界数百年間、僅に似たる者をだに見ず。」
 一茶の俳句の特徴として「滑稽、風刺、慈愛」を取り上げているが、この三点がその後の一茶観に大きな影響を与えることになる。

2)束松露香
 その後、束松露香が『俳諧寺一茶』(明治三十三年)を信濃毎日新聞紙上で連載。一茶の評価がさらに高まることになる。
 束松露香は一茶の性格をさまざまな角度からとらえている。「皆一視同仁の愛情に富む一茶」「小児の如き痴態を演じる一茶」「剛胆な一茶」「滑稽人としての一茶」「風刺家としての一茶」。そして総合的に見て「極端なる一種の潔癖家」「激烈なる特殊な熱血家」と一茶をとらえている。

3)自由主義文学としての一茶
 大正期に入ると、一茶の研究は一層活況を呈するようになる。一茶研究を後押しする気運となったのは、当時流行した自然主義文学の影響である。特に『父の終焉日記』の生々しい記述を、日本文学における自然主義文学の嚆矢としてとらえる見方も生まれてきた。また、一茶の俳句の再評価として、自由律俳句の隆盛との関係も考慮する必要がある。とくにその急先鋒に立ったのが荻原井泉水である。自由律俳句を積極的に推し進めた荻原井泉水によって、一茶の大胆な句風は大いに評価されるようになった。荻原井泉水の他にも、島崎藤村らも自然主義文学としての一茶の文学を共感を持って迎えられるようになる。
 大正期を経て、その後、一茶がどのように受容されてきたかをたどる。昭和期に入り、さらに毀誉褒貶、紆余曲折を持って迎えられることとなる。

4)プロレタリア文学としての一茶
 大正期においては自然主義文学として受容されてきた一茶であるが、昭和初期になるとそれは無産派的立場としての「貧困庶民詩人」としての一茶像がクローズアップされるようになってきた。(高倉輝『一茶の生涯と芸術』昭和十三年)いわばプロレタリア文学としての一茶作品である。                                          
5)愛国主義者としての一茶
 さらには、太平洋戦争に突入すると愛国的、農本的立場からの一茶像が切り取られるようになってくる。(栗生純夫。伊藤正雄)
 以外と思われるかも知れないが、一茶の作品の中には「日本」や「神国」を取り上げた句は意外に多い。
 君が世や風おさまりて山ねむる
 神国は天からくすり降りにけり
 日の本や天長地久虎が雨
など。それらの句を意図的に取り上げると「国土礼賛の農民詩人」としての一茶像を浮かび上がらせることができるのである。

6)民主主義詩人としての一茶
 戦後になると、当然、愛国主義的な一茶像は否定されることとなる。代わりに登場じたのが「民主主義詩人」としての一茶(妹尾義郎)、「ヒューメンな詩人」としての一茶(井泉水)、「文化人」としての一茶(中村白民)などもあげられる。
 究極的には一茶の全体像をとらえて「一茶の作品とは○○だ」と言い切ったり、批評することはおよそ不可能なのだろう。その時々の時流や、文化や、読む人の価値観を投影して、さまざまな色を一茶像として映し出すプリズムのようなものなのだろう。
 プリズムのような多様な価値を見いだすことのできる作品であるということこそ、一茶の作品世界の本質であるのかも知れない。

4、教材としての小林一茶
 時代によって変化する一茶像の影響を、当然教育現場でも受けることになる。教育現場において一茶の作品はどのように読まれてきたのだろうか。

1)明治期の教材から
 一茶の作品が初めて教材として登場したのは明治四十三年、信濃教育会が編集した副読本「補習国語読本」のなかであった。
 そのなかで取り上げられているのは一茶の評伝と、「勧農詞」という文章である。
 一茶の評伝の中には次の俳句が採録されている。
 我と来て遊べや親のない雀
 たらいからたらいに移るちんぷんかんぷん
 何のその百万石も笹の露
 松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな
 やせ蛙負けるな一茶これにあり
 けふからは日本の雁そ楽に寝よ
 ちなみに「勧農詞」については一茶の作ではなく、伊那の宮下氏による作であることが分かっている。
 一茶の作品の中でこれらの俳句が採録された意図として、当時信濃の教育界に大きな影響を与えていた束松露香の解釈が参考になる。束松によればこれらの俳句は、国家安全、天下太平をことほぐ俳句だとされている。この教材では、国家礼賛者の立場として意図的に一茶像を切り出してきていることが分かる。

2)自然主義詩人としての一茶教材
 大正期の自由教育では自然主義文学としての一茶像がクローズアップされるようになってきた。とくに長野では白樺派教員によって創刊された同人雑誌「地上」などに一茶の『父の終焉日記』などが採録され、その作品を副教材として活用する学校も登場したという。
 『父の終焉日記』や『おらが春』がここでは取り上げられている。
 また、俳句としては次の作品が教材に見える。
 正月や梅のかはりの大吹雪
 ふるさとや餅につきこむ春の雪
 大の字にふんぞり返る涼哉
 山水に米をつかせて昼寝かな
 長き夜の化けくらべせん老狸
 松茸や犬のだくなも嗅歩く
 雪舟引や屋根から落とす届状
 これがまあついのすみかか雪五尺 
 これらの俳句を読めば分かるように、身近な生活経験を素朴に読んだ俳句が多いことが分かるだろう。写実的、自然主義的な色彩の濃い作品から編集されているのだ。

3)大正の教科書
 大正七年になると初めて第3期の国定教科書(大正7~昭和7)に一茶の作品が採録されることになった。
 ここで取られている作品は、自由主義的、児童中心主義的な思想を反映させた作品が多く、一茶の作品もその編集意図に沿ったものが選ばれているように思える。現在でもおなじみな「雀の子」がここで教材として登場する。
 雀の子 一茶
 雀の子そのこけそこのけお馬が通る
 さあござれここまでござれ雀の子
 赤馬の鼻で吹きけり雀の子
 やせ蛙まけるな一茶これにあり
 やれうつなはへが手をする足をする

4)戦後の教科書
 戦後、小学六年の教科書に一茶の作品が再登場するようになる。
 「かえる」という教材文である。この教材文では一茶の評伝とその作品を紹介する構成になっている。「かえる」の中では厳しい自然を生きる雪国の生活を紹介しつつ、一茶の人柄を描き出している。
 雪とけて村いっぱいのこどもかな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 ゆうぜんとして山を見るかえるかな
 犬どもがよけてくれけり雪の道
などの俳句を取り上げつつ、こども好き、動物好きな一茶の姿を強調している。
 一方、高等学校の教科書にも一茶作品は収録されている。『父の終焉日記』のなかで父を懸命に介護している場面を取り上げている。『父の終焉日記』は前述したように義母や弟との確執などかなり生々しい部分も描かれているが、そのような箇所は慎重に避けられ、純粋に父親のために思いやりを持って接する姿が文章から受け取れるように加工されている。
  これら両者に共通する一茶像は、いわば、博愛主義者としての姿である。
 現在、さまざまな教材で一茶作品が取り上げられているが、この博愛主義者としての一茶像が一番一般的なものとして流布しているのではないかと思われる。

5、キュレーションとしての一茶教材
 一茶が詠んだ俳句は約2万句である。教育における一茶の享受は、必然的に、一面的というか、加工されてしまっている。しかし、何を、どう切り取っても、それをするするとすり抜けてしまうのが一茶という巨大な存在だ。
 ならば、むしろそれを逆手にとって、それぞれの読者が、「一茶の作品群をどのように読むか」に焦点を当てて学習すると言うことができないだろうか。
 私は、一茶の巨大な作品世界を味わうための切り口として「キュレーション」という視点を取り上げたい。
 キュレーションとは、本来は博物館や美術館の学芸員を意味する「キュレーター」から派生してできた言葉である。博物館や美術館におけるキュレーターの役割は、展示するテーマやコンセプトを考え、参加アーティストや作品を収集、選別し、それらを効果的に展示するために作品を設置することである。テーマや意図を持って作品を読み、選んだり、コンセプトに沿って作品を組み合わせたりする「編集力」が、キュレーションの根幹となる力となっている。このように、キュレーションとは「特定の視点をもとに情報を収集したり選別したりして発信していくこと」を指す。
 高度情報化社会が到来し、膨大な情報に囲まれた我々にとっては、多様な情報に埋没せずに、その中から価値ある情報を選び取る力も求められてきている。それらの、多様な情報の中から関心に応じて情報を組み合わせ、新たな価値を生み出していくことがキュレーションである。キュレーションは、価値観や鑑識眼を持った目利きである「人」の介在が不可欠だ。機械では選別できない価値ある情報を選び取るための、」キュレーションとしての編集力は今度ますます求められてくるものと思われる。
 さて、一茶の俳句とキュレーションとにはいったいどのような関係があるというのだろうか。
 前述したとおり、一茶の作品は、その膨大な作品群の中で何を選択し、どう組み合わせるかによって作品の見え方が全く異なるところにその大きな特徴がある。だから、「どう読むか」という学習を「どう組み合わせるか」というキュレーションの力によって顕在化させようというのがこの学習のねらいなのである。

6、一茶を味わう授業の構想
 たとえば、次のような授業はどうであろうか。
1)単元名
  小林一茶企画展

2)単元の概要
 本単元では、小林一茶の企画展をするという設定で、一茶作品を、ディスプレイポートフォリオ(屏風のようなもの)を用いてテーマを決めて展示・紹介する言語活動を行う。
 小林一茶の多様な魅力を、学習者一人一人がそれぞれの切り口で提案し、複数の俳句を紹介して展示をすることを最終的な単元のゴールとする。
 一茶の俳句は、小学生にも理解できるような平易な表現の作品が多いが、その作品には多様な魅力が秘められている。
 一茶の作品にはどこをどう切り取るかによって、さまざまな魅力の切り口を見いだすことができる。それぞれの読み手が、それぞれの立場で興味や関心をもって読むことのできる作品が多い。切り口次第でさまざまな魅力を引き出すことのできる、多面的な奥行きのある作品群であるとも言える。このような多様な魅力を持つテキストは、キュレーションの素材として適切である。一茶の企画展として独自の切り口で一茶の俳句を選択し、それに解説をしたり鑑賞文を書いたりする活動を通して、複数の情報を関連づけて自分の考えを表現する学習へとつなげていきたい。

3)単元の目標
(1)「小林一茶展」を開催するために、小林一茶の作品を読んでその魅力に迫り、自分が見いだした一茶作品の魅力をわかりやすく紹介しようとすることができる。(関心・意欲・態度)
(2)自分が感じとった一茶作品の魅力について、その感動の根拠や鑑賞の切り口を明確にさせて鑑賞文を書くことができる。(書くこと ウ)
(3)小林一茶の作品をテーマに沿って読み、作品の魅力を紹介する活動を通して、一茶作品の根底にあるものの見方や考え方をつかむことができる。(読むこと エ)
(4)俳句を味わうことを通して、言葉の辞書的な意味と文脈上の意味と関係に注意し、語感を磨くことができる。(伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項)

4)指導計画
第1次 小林一茶の魅力を見いだす。(1時間)
○単元の概要を知る。
○小林一茶の解説文を読み、どのような視点で俳句を読むか見当をつける。
例)働く者の見方・自然や草花を愛する・不幸に負けまいとする心・風刺と滑稽

第2次 「小林一茶展」を開催するための準備をする。(4時間)
○小林一茶の魅力を紹介する切り口を決め、展覧会のコンセプトを決定する。
○テーマに沿って俳句を集める。
○俳句を展示する順番やレイアウトを考え、鑑賞、解説文を書く。
○展覧会の内容について助言し合う。

第3次 「小林一茶展」を開催する。(1時間)
○「小林一茶展」を鑑賞し、ギャラリートークを行う。
○単元の学習を振り返る。

5)授業構想の課題
(1)一茶作品の教材化
膨大な一茶作品をそのまま与えるわけにはいかない。
 ・平易なもの
 ・親しみやすいもの
 ・多様な切り口が生まれそうなもの
 ・一茶の魅力がよくあらわれているもの
などから、ある程度与える俳句を絞り込んで子どもたちに提示することが必要になる。

(2)俳句を理解するための指導
平易な俳句であってもそれを理解、鑑賞するためにはある程度の手ほどきが必要となるだろう。俳句の読み方、鑑賞の仕方などがどの程度支援が必要なのかは授業を実践していく上で検討していかなくてはいけない。

(3)「編集の妙」をどう支援するか
キュレーションの一番面白いところは、工夫された編集には「組み合わせの妙」が生まれるということだ。同じ作品であっても複数の作品を組み合わせることによって全く違った魅力を輝かせる。そのような学習につなげていくためには、どのような支援なり、指導が必要であろうか。今後考えていく必要がある。

参考文献
矢羽 勝幸『一茶大事典』(大修館書店 1993)
渡辺 弘 『小林一茶―「教育」の視点から』(東洋館出版社 1992)
小林一茶著, 矢羽勝幸校注『父の終焉日記・おらが春 他一篇』 (岩波文庫 1992)
小林一茶著, 丸山一彦校注『新訂 一茶俳句集』 (岩波文庫1990)
山下一海『一茶~生涯と作品~』(講談社 1986)
宋左近『小林一茶』(集英社新書 2000)
半藤一利『一茶俳句と遊ぶ』(PHP研究所1999)
正岡子規『一茶の俳句を評す』(1897)
束松露香『俳諧寺一茶』(一茶同好会  1910)
荻原井泉水『一茶随想』 (講談社 2000)
高倉輝『一茶の生涯と芸術』(ルミノ出版社, 1938)
栗生純夫『土の俳人一茶』(長野県農会 1915)
伊藤正雄『小林一茶』(三省堂 1942)
スティーブン・ローゼンバウム (著), 監訳・解説:田中洋 (翻訳), 翻訳:野田牧人 (翻訳)『キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術』(プレジデント社 2011)佐々木俊尚『キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる』(筑摩書房 2011)